でじたけの「人生日々更新」つくられる歴史〜お吉にされた美少女-その6

Episode No.4558(20130330)[偉人]Great man

つくられる歴史
〜お吉にされた美少女-その6
The history is made artificially 06.

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自分にとっては今が「お吉ブーム」だが、
世間的なお吉ブームは、
これまで少なくとも2回はあったようだ。

最初は川端康成と同世代の作家、
十一谷義三郎による
『唐人お吉』が出版
された昭和のはじめ頃。

次のブームは、それから40年ほど経った昭和42年頃。

昭和42=1967年は、
1868年からの明治の年号がこの年まで続いていれば、
ちょうど「明治100年」になることから、
幕末維新に注目したブーム作りが行われた。

お吉の写真が話題になったのは、
どうやらこの明治100年記念に便乗した、
さまざまな出版物が起因していたようだ。

NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』
この年、明治100周年を記念して制作されている。

龍馬ブームは、その後も続き、
2010年、福山雅治主演の
NHK大河ドラマ『龍馬伝』で再燃。

お吉の菩提寺にして、
坂本龍馬 飛翔の地という下田・宝福寺には、
福山雅治似の木製・龍馬像が鎮座することになった。

だが、いわば国の犠牲となったお吉の話は、
ヤクザの親分・次郎長の話
大河ドラマになれないように、
NHKでドラマ化すらされていない。

さて、龍馬の写真といえば、
下田出身の下岡蓮杖と同じ時期に、
長崎の出島で修行した上野彦馬が撮ったとされる
この1枚が有名だよね。

これは間違いなく龍馬本人に違いないが、
幕末維新の悲劇のヒロインお吉の場合には
確実な写真が伝わっていない。

お吉の写真とされているものには、
19才の時のもの言われてる
別人の写真
のほかにも何点かある。

明治100年の記念出版物にあわせ、
「この写真、お吉に似てるらしいから、
 お吉でいいよね」てな感じで強引に本に載せられた
…という証言が後に出てきたのは法被を着たこんな写真。

この手の写真は、たまたま下田に立ち寄った
美形の旅芸人だったりするらしい。

さらに、よく見るのが、この写真。

たまたまヤフオクで見つけて落とした、
昭和11=1936年に初版が発行され、
昭和16=1941年に7版が刷られている
下田開国記念館刊の「唐人お吉一代記」には、
この写真が使われている。

少なくとも明治100年以前は、
こっちの写真がお吉としてよく使われていたようだ。

いったいいつから、あの19才のお吉が
一般的に広まったのかはわからないが…
おそらく、19才と言われる方が
チャーミングでウケたのだろう。

この写真は、見れば見るほど、
明治24(1891)年に行われた
日本で最初の美人コンテストに出場し、
上位入賞を果たした
柳橋芸妓 河内屋小鶴(22?28?才)
…に似ているような気がする。

ちなみにこの写真は、
例のイタリア人写真家、ファルサーリの撮影らしい。

最も同じような日本髪、化粧をしていれば、
同じ顔に見えるだけかもしれないが…。

自分と同世代の女子は、
高校時代…みんな松田聖子だったし、ね。

その美人コンテストで
優勝した新橋の芸者・玉菊(17才)の顔も同じようだし。

あと、お吉が40代に入って開業した呑み屋、
安直楼時代のものだと言われる写真もよく見るが、
女だか男だかもはっきりしない感じの写真だ。

下の写真は、印刷物などではお目にかからないが、
たまたまネットで見つけたもの。

一切の説明がないので、
お吉であるらしいことの根拠はまったくわからない。

ただ、小柄な感じだけど、
ちょっと気の強そうなところもあって、
伝え聞くお吉のイメージに近い感じはしなくもない。

また、この証明写真的な写真の撮り方が、
ひょっとして玉泉寺へ奉公へ出ることが決まって
身分証明のために撮られたものではないか…などという
勝手な想像をふくらませてしまう。

そんな状況の中…昭和9(1934)年。
読売新聞に
「唐人お吉の写真発見」
…という見出しが躍る。

それは28才のお吉の写真で、
も撮影したのは下岡蓮杖だという。

お吉が本当に28才だったとすれば、
撮影されたのは1868年=明治元年だから、
お吉が横浜で鶴松と所帯を持った年。

その頃、蓮杖は横浜・弁天通りで写真館を開き、
大成功をしている時期。

下田出身の蓮杖は、当初、
ハリスの通訳だったヒュースケンに写真術を習おうと
近づいたという話も残っていて、
その時、お吉と面識があったとしても不思議はない。

ただ、下田・寝姿山にある
下岡蓮杖記念館で説明されている
お吉と幼なじみだったとする話は、
年が離れすぎているので少し無理があると思う。

この時、
蓮杖はすでに45くらいにはなっていたはずで、
お吉とは17も年が違う。

蓮杖が横浜に出てきたのは1860年頃。
お吉が玉泉寺に通った1857年には、
まだ下田の住人で、足軽をやりながら
異人に近づくチャンスをうかがっていた。

異人から写真術という
新しい知識を学ぼうとした蓮杖のこと…、
異人の元へ通ったというだけで
偏見を受けたお吉には、
少なからず同情的だったに違いない。

そして、異人から教わった技術を元に
写真館を開き、成功させた横浜へ、
懐かしいお吉が来たことを知った蓮杖が
記念に一枚撮ってやったとしても
…確かに不思議はないよね。

その写真が…これだ。

何とも凛々しいではないか。

どことなく、さっき紹介した正面向きに座る女性が
少し年をとったように見えるのは気のせいか…。

さらに気になるのはこのポーズと撮影の角度。

1866年に上野彦馬が撮影したという、
この写真を思い出してしまう。

ここでまた下田・宝福寺につながってしまうわけだけど、
…ま、これは単なるこじつけ。

この時代に写真を撮るのは、
5分も10分もジッとしていなければならなかったため、
こういう楽な姿勢の方がブレずによかったんだろう。

しかるに男勝りの
この堂々とした感じの女性こそお吉
だと思えれば、何となくひと安心なのだが、
1つだけひっかかることがある。

それは「唐人お吉の写真発見」
…という記事が新聞に掲載されたのが、
4月1日、つまりエイプリルフールだったということ。

エイプリルフールの起源は諸説あるが、
どうやら16世紀のヨーロッパが発祥らしく、
フランスではエイプリルフールのことを
「4月の魚」と呼ぶ。
これは、4月になるとサバが豊漁となり、
どんなエサにも引っかかる
…ということからきているらしい。

日本でも江戸時代から
四月馬鹿はあったらしいから、
昭和9(1934)年の時点で、新聞が
“誰も傷つかない嘘”
…を書かないとも限らない。

今年も間もなくエイプリルフールがやってくるが、
自分が今年ついた嘘が、100年後に
本当にあった出来事…“歴史”として
記録されていたら笑うね。死んでるけど。

歴史はそれを知った時代の人たちが、
その時代を生き抜く勇気となるよう、
いいように解釈されていくもので、
必ずしも事実とは結びつかないものかも知れない。

しかし、
それはそれで正しい歴史の理解だろう。

何より大切なのは…
今を生きてる人だから、ね。

そう…人生、日々更新。

【了】

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参考資料:
「幕末開港の町 下田」肥田 実=著 下田開国博物館=刊
「ハリスとヒュースケン 唐人お吉〜物語の虚実」尾形征己=著 下田開国博物館=刊
「タウンゼント・ハリス」中西道子=著 有隣新書=刊
「歴史REAL女たちの幕末・明治」洋泉社MOOK
「歴史探偵 2013年 4/25号 」竹書房=刊
「江戸っ子だってねえ〜浪曲師広沢虎造一代」吉川潮=著 講談社=刊
 長崎大学付属図書館ホームページ
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