でじたけの「人生日々更新」つくられる歴史〜お吉にされた美少女-その5

Episode No.4557(20130329)[偉人]Great man

つくられる歴史
〜お吉にされた美少女-その5
The history is made artificially 05.

Back to 01 | 02 | 03 | 04

唐人お吉の菩提寺、
下田・宝福寺に飾られていることから
19才のお吉として知られている写真の少女は、
残念ながら、まったくの別人である

誤解のないように断っておくけど、何もこの記事は、
宝福寺を批判するために書いているわけではない。

宝福寺に行くとしてくれるお吉の説明は
実に快活、凜としていて、
聞いていて気持ちがよく、大好きだ。

ただ…
宝福寺のチラシに印刷されているお吉写真の説明…
安政5年=1858年に、
下岡蓮杖の弟子が撮影したというのは無理があり過ぎる。

下岡蓮杖が写真機を手に入れたのは、
下田から横浜に出た後のことで
1860年頃と言われている。

横浜野毛に最初の写真館を開いたのは、
当然、写真機を手に入れた後の1861年。

その蓮杖の弟子が1858年当時、
写真機に触れることなど到底不可能なのだ。

また、そもそも安政5年の撮影なら、
お吉は19才ではなく17才で…これも辻褄が合わない。

菩提寺の説明は、やはり影響力が強いとみえて、
ブログに同じ説明がされているのをよく見る。

インターネットは便利なもので、
まるで自分の机の上に図書館があるが如く、
調べたい事柄が次々と検索できる。

しかし、怖いのは…、
そこに載ってる情報を鵜呑みにしてしまうこと

立派に作られた書籍でさえ、
本当のことが書かれているとは限らないし、
書いたものが、すぐ世界中に公開できる時代にあって、
印刷・製本された情報は、
すでに「古い」と考えねばならない。

自分たちが教科書で習った常識が、
今はすでに非常識になっていることさえ間々ある。

マスコミ報道であっても、
かなり意図的で怪しい情報だって少なくない。

そもそもマスコミ…とくに民放の狙いは、
ニュースを含め、すべてが視聴率を上げること。

広告を流すことで成り立っている以上、
より大勢の人に注目されない限り、
その広告枠を高く売ることはできないからね。

つい昨日(2013.3.28)も、
東京・武蔵村山市で
東大チームが発見したという立川断層が、
実はセメントの人工物を
見誤ったものであったことがわかって、
謝罪の会見があった。

だが、こうした誤認による訂正発表があるなんて、
まだいい方で、たいていの情報は
流しっぱなし…じゃないのかな。

東京大学の教授でさえ間違えるというのに…
まして責任感のない素人が書いている内容など、
どこまで信用できるのかなど、到底わからない。

ま…このページだって同じだけど、ね。

そこで、より数多くの情報をネットに限らず、
可能な限り集め、はてして辻褄が合うのかどうか…、
時に手作りで年表を作成しながら得た結論は以下の通り。

19才のお吉として知られる少女の
別カットと思われるこの少女の写真を撮影したのは、
下岡蓮杖の弟子ではなく、異人の写真家。

第1候補はオーストリアの写真家・
スチルフリードという人物。

これは掲載誌「歴史REAL女たちの幕末・明治
…のキャプションに出ていたし、
出典とされる長崎大学付属図書館
データベースでも確認できる。

スチルフリードの正確な名前と表記は、
ウィキペディアによると…
ライムント・フォン・シュティルフリート
Baron Raimund von Stillfried

来日は1869年=明治2年だから、
この娘の髪型を見てもわかる通り、
撮影されたのは、やはり明治に入ってからだ。

その頃、まだお吉は元気だし、
シュティルフリートが来日した横浜に
お吉も鶴松と住んでいたはずだから、
ひょっとすると、
関内あたりですれ違うことくらいあったかもしれない。

けれど、いかんせん写真の少女とお吉は年が合わない。

この時、お吉は28、9になっていたはずだし、
横浜では髪結いをしていて、芸者はしていない。

幕末の1859年に
日本初の国際港として開港した横浜は、
シュティルフリートが来日した頃はすでに開港10周年。

外国船の往来も多くなり、
外国人相手のみやげも飛ぶように売れるようになった。

中でも人気があったのが写真集。

外国人には珍しい神社仏閣や
着物姿の女性など、風俗を撮影したもので、
通称「横浜写真」と呼ばれた。

蒔絵のアルバムカバーがついた豪華写真集は、
横浜開港資料館にも展示されている。

1866年の豚屋火事
関内はすっかり焼けてしまったが、
復興が進む中で、
外国人の通行を許した関内と、
外国人立ち入り禁止の関外の境も
事実上なくなり、
外国人は自由に歩き回るようになっていた。

大人気の遊郭街も関外に移転してたしね。

幕末の日本を撮影した写真家としては、
アジア中を撮影旅行してまわり、
1863(文久3)年に来日すると
今度は日本中を撮影してまわったF・ベアトが有名で、
1869年(明治2)には横浜に写真館を開いている。

その写真館を1877(明治10)年に引き継いだのが、
ベアトに写真術を手ほどきを受けた弟子で、
あの少女の写真を撮ったであろうシュティルフリートだ。

さらに8年後の1885(明治18)年…、
シュティルフリートから写真館を
残された写真ごと買収したのが
アドルフォ・ファルサーリというイタリア人。

ファルサーリ商会は、手に入れた写真を元に
大量の横浜写真を販売したことで知られていて、
現在も残されている写真は多い。

宝福寺にある19才のお吉写真の元になった写真も
「士官の娘(Officer's Daughter)」というタイトルで
ファーサリ商会の写真集に度々登場している。

ファルサーリ商会の記録によれば、この写真は
1880年代の作品とされている。

ファルサーリがシュティルフリートから
写真館を買収したのが1885(明治18)年なので、
「士官の娘」を撮影したのが
シュティルフリートであるなら、撮影時期は
1880(明治13)から5年以内ということになる。

その時期であれば、
お吉はすでに下田に帰っていて、
鶴松とも死に別れ、
ぼちぼち料亭・安直楼を開こうか…ということろだ。

そもそも
下岡蓮杖の弟子が撮影したものでないことは
明らかなので…今さらの情報だけど。

ただ「歴史探偵 2013年 4/25号 」に掲載されていた、
眠る真ん中分けの少女…

…この写真を撮影したのはファルサーリだという説もある。

もし、そうだとすれば
歴史REAL女たちの幕末・明治」に
掲載されていたこの写真…

…もシュティルフリートではなく、
ファルサーリが撮影したことになり、
最も有名な“19才のお吉”と言われた写真も
ファルサーリの撮影…ということになってしまう。

はてしてこの少女を撮影したのは、
オーストリア人の
シュティルフリートか?
それとも、イタリア人の
ファルサーリか?

ファルサーリについては、つい先日まで
イタリア文化会館で写真展が開催されていた。

あいにく気づくのが遅くて、行くことはできなかったが…
ネットで紹介記事を見ると、
例の19歳の吉写真も、
ファルサーリの作品として紹介されている例もある。

確かに売ってはいたけ思うけど…。

ファルサーリには日本人との間にキクという娘もいるので、
とりわけ日本との関わりが強い
…と信じたい人も少なくないだろう。

ただ、個人的な見解としては少女を撮影したのは
シュティルフリートだと思う。

ファルサーリ商会の記録で
眠る少女には「Japon-1886-08」という
記録が記されているようだが、
真夏の8月に火鉢は何とも不自然。
少女も厚着過ぎる。

この日付は
「撮影日」ではなく単なる「発売日」ではないか。

撮影者の記録なら、撮影日を残すのが自然だと思う。

ざっくり調べたところでは、
ファルサーリという人物は写真家というより、
事業家として成功した人物だという印象が強い。

写真家と事業家の違いは…、
写真家は自分で仕事をこなし、
事業家は他人にうまく仕事をさせること、だ。

故にファルサーリは、やはり
買収した写真館に残されていた
シュティルフリート撮影の写真を売りさばいた
…と考える方が無理はない。

その一方で、
打数の彩色技術者も育て、
日本の写真界にも貢献したことに間違いはない。

さて、いずれにしてもこの少女は
残る疑問は…

幕末の異人さんたちから
現代人のハートまでつかんでいる
人気モデルはいったい誰なのか?

…だ。

この時代になるとさすがに、
写真を撮ると魂を抜かれるなどと思う人は
いなくなっていたようだが、
写真自体がかなり高価なものだったので、
撮影されるのは身分の高い人たちが圧倒的に多い。

士官といえば、初級士官教育を受けた軍人で、
階級が少尉以上の武官。
将校とも言われる、やはり高い身分。

また場所柄、横浜で士官といえば、
船長や航海士などもやはり士官と呼ばれたらしい。

撮影者だと考えられるシュティルフリートの父親は
オーストリアの職業軍人で、
自身も一度は軍隊に入ったが、
反発して世界中を放浪。
アメリカで写真術を学んで写真家となったという。

そうした経歴から、軍隊には
多少なりとも慣れ親しんではいただろうし、
扱いにも慣れていたかもしれない。

シュティルフリートは、
明治天皇を盗撮する
…という事件も起こしているらしいが、
これが日本の軍関係者と
コネクションができたおかげで、
明治天皇に近づく機会を得たからかどうか
詳細はわからないが、想像に難くないのでは?!

ちなみに…
日本で陸軍士官学校が設立されたのは
シュティルフリート来日の5年後の明治7年(1874)。
続いて明治9年(1876)には
海軍士官学校が設立されている。

はたして、この少女が
伝えられている通り19才だったとすれば、
生まれは1861年から1866年の間。

ちょうど横浜が開港して、
豚屋火事が起きるまでの間くらいになる。

この頃の平均寿命は
50〜60才くらいなので、事故でない限り、
明治の終わりか、大正のはじめくらいまでは
生きていたに違いない。

自分のあずかり知らぬところで有名になり、
100年以上もたって雑誌にまで掲載されている。

はたして、それは彼女にとって、
幸福なことなのか、それとも不幸なことなのか…?

このほかにもお吉にされた女性たちと、
これぞ本物のお吉の写真については
こちらの最終回へつづく

Back to 01 | 02 | 03 | 04

※本シリーズの一部には、他のホームページから流用したものがあります。
 本ホームページは営利目的で制作・公開されているものではありませんが、
 著作権者により削除の申し出があった場合には、速やかに削除いたします。

※参考文献については、本シリーズの最終回に記載します。

Copyright 1998-2013 digitake.com. All Rights Reserved.


人生日々更新 -Main-