伊豆下田は横浜の
兄であり父である…という理由
Shimoda is father of Yokohama.
伊豆下田の街並みに惹かれ、
幕末の歴史を改めて紐解いてみると、
普段、自分が暮らしている
見飽きたはずの横浜が新鮮に見えてくる。
横浜…
ことに関内、馬車道あたり。
碁盤の目のように道が敷かれたその構造は
下田市街の構造に酷似している。
京都にも見られる
都市計画された街並みだ。
歴史を追ってみると、
横浜は、いわば
下田の子供のようなものだから、
街並みが似るのも当然といえば当然。
1854年、2度目の来日で
日米和親条約を結んだペリーが、
アメリカ船が捕鯨や貿易のために立ち寄り、
食料などを補給するための港として、
すぐさま臨時で開かせたのが下田と函館。
ペリーが帰った2年後に
初の総領事として赴任したハリスは、
通商条約を締結し、
より江戸に近い港として横浜を開かせた。
何もない浜から、日本初の国際港として
わずか2年後の突貫工事で作らせたのが横浜だ。
下田の港はもともと、
天下の台所である大阪と江戸の間にあって、
風待ち港として栄えていたが、
奇しくも
ペリーが帰った4ヶ月後に起こった
安政東海地震による津波で壊滅的な被害を受けた。
今も残る下田の街並みは、
国際港として
臨時に開かれた頃でき上がったものだろう。
横浜港が開けると、
下田は国際港としての役目を終えた。
…が、すでに下田には
外国人相手に商売を営む者が多勢いて、
そうした人たちの大半も
一緒に横浜に移って行った。
横浜の関内という名称は、
そもそも外国人が行き来していい範囲内
…という意味。
開港当時の関内の地図をみると、下田人エリアがある。
そのエリアは、
地元の人たちに割り当てられたスペースより広いくらいだ。
かつて、下田を追われたお吉も、
横浜のこの辺りに一時住んでいたというし…。
下田出身で日本の写真家の祖と言われる
下岡蓮杖も馬車道に
国内初の本格的な写真館を開いていた。
だた、その後、横浜は
震災や空襲…そしてバブルのおかげで、
その街並みを変えてしまった。
何せ、30年前にあった建物さえ
少なくなってしまったからね…。
高層ビルが建ち並び、
すっかり空が狭くなってしまった港町。
だが、海の上にはあいかわらず空が広がり、
水平線に目を細める人の姿に変わりはない。
今日も歴史の話をしたら…また長くなっちゃったな。
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