つくられる歴史
〜お吉にされた美少女-その2
The history is made artificially 02.
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伊豆下田にある宝福寺には
2つのキャッチフレーズがある。
1つは、坂本龍馬 飛翔の地。
もう1つは、唐人お吉が眠る寺。
坂本龍馬 飛翔の地…の意味は、
下田に滞在していた
土佐藩主・山内容堂の元を勝海舟が訪ね、
土佐藩を脱藩し、海舟の弟子となっていた
龍馬を許してもらった…その謁見の間が
容堂侯が滞在した宝福寺に当時のまま残されているから。
当時、お偉いさんはみんなお寺に泊まったんだね。
しかし、何でまた、
土佐の山内容堂と江戸にいた勝海舟・坂本龍馬が
下田で会うことになったのだろうか?
謁見があった文久3年、1863年には、
すでに下田は臨時国際港としての役目を終えている。
横浜が開港したのは1859年。
1862年には初代アメリカ公使・ハリスも帰国していた。
下田は、また元来の素朴な港町に戻っていた…はずだが。
そもそも下田は
江戸と大阪を行き交う船の風待ち港にして、
江戸時代のはじめに海の関所が置かれた場所だった。
出船入船三千艘といわれ、
よそ者の往来には慣れっこの港町。
ある意味、異人に慣れるのも早かったかも知れない。
この時、山内容堂は
江戸から土佐への帰り道で時化に遭い下田へ。
勝海舟と坂本龍馬は、
神戸海軍操練所設置準備で江戸と神戸を
言ったり来たりしていて、
この時は江戸への帰り道で時化に遭い同じく下田へ。
かくして宝福寺での謁見となる。
容堂侯は海舟が酒が呑めないことを知りながら、
大きな杯に酒をナミナミと注いで、
これを飲み干したら龍馬を許すと言って差し出す。
海舟はイッキにそれを飲み干し、
許した証にひょうたんを描いた扇子をもらい受けた。
そして、免罪となった龍馬は
晴れて歴史の表舞台に出て行くことになる…というわけ。
ちなみに個人的な調査結果によれば、
酒の呑めない男ほど、女癖は悪いな…だいたい。
勝海舟も、その例外ではなかったようだ。
…詳しくはこちら。
勝が容堂侯と宝福寺で会っている間、
龍馬はハラハラしながら、
花街沿いにある廻船問屋の二階で待っていたという。
その廻船問屋こそ…
今や全国からファンが集まる大人気の
SOUL BAR TOSAYA(土佐屋)さん。
私も大のお気に入りの店で、
ここで呑みたいが故、下田に宿をとったこともある。
でも、東京・横浜あたりからだと、
下田は意外と日帰りで行けることも発見。
朝、8時か9時くらいの電車に乗っても
昼には下田に着く。
東京からなら踊り子でダイレクトに行けば楽だし、 横浜あたりからなら、
東海道線の普通電車を使っても充分。
長旅のようでいても、景色がいいから飽きないんだ。
昼飯に何かうまいもんでも食ってから、
午後は市内を散策して…
18時になったらSOUL BAR TOSAYAへGO!
2時間くらいはゆっくり呑んで、
20時半から21時の上りに乗れば、
その日のうちには帰ることができる。
横浜から都内に出かけていって、
終電がなくなるまで呑んでしまい、
タクシーで帰る…なんていう
不健康で不経済なことをするくらいなら、
空気と景色がうまいところで気分転換する方が絶対いい。
本題とはかなりずれたけど…
そうして下田の雰囲気にふれると、
幕末の歴史に興味がわく気持ちも理解してもらえると思う。
そしてまた今日も、タイトルにある
「お吉にされた美少女」の話まで到達できず。
…つづきは、こちら。
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