国際社交場跡
Trace of the red light district for foreigners.
昨日、写真で紹介した
国際社交場…というのは、
つまり外国人向けの遊郭のこと。
人類最古の商売が売春だ
…というのは、よく言われる話だけど、
開国当時、国の代表たる幕府の係官が、
外国人相手の遊郭を作らせた最大の理由は、
外国人を一定の地域から出さないためだ。
臨時の国際港、下田では
現在のペリーロード界隈が遊郭街だったという。
初の本格的な国際港として横浜が開港すると、
アメリカ人だけでなく、
長崎の出島で貿易をしたいたオランダ人や、
ロシア人、イギリス人など、
世界中の船が横浜に入ってくるようになった。
…となると、
これまで以上に大規模な遊郭街も必要となる。
そこで、作られたのが約1万5,000坪もの
広大な敷地に十数件の遊郭が建ち並ぶ国際社交場。
当時の地図を横浜開港資料館で見たが、
周囲を堀に囲まれて、
まるでディズニーランドみたいな感じにも見える。
一時はこの遊郭街を中心に2〜3,000人もの
遊女が集められたらしい。
しかし、ここはまた大きな悲劇が待っていた。
横浜開港から7年後の1866年11月26日。
外国人相手の豚肉屋を火元とする、
豚屋火事と呼ばれる大火災が
外国人居留区・関内を焼き尽くした。
堀に囲まれた遊郭街では
逃げ遅れた遊女たちが犠牲となった。
その人数は400人あまりとも言われている。
犠牲者が多かったうえ、遊女には
もともと身寄りが無い女性も少なくなかったので、
焼け死んだ遊女は、そのまま
その場所に埋められたという話も伝わっている。
現在、その場所には、
当時一番大きな遊郭だった岩亀楼(がんきろう)の
灯籠だけが残されている。
その説明書きが
昨日紹介した国際社交場と書かれたアレだ。
灯籠の後ろには、何故だかこんもりと
古墳のようにふくらんだ植え込みがあるが、
そこには何一つ説明はない。
そして…
そのわきにはちょっとした水場がある。
岩亀楼にちなんでか、亀がたくさんいる池だ。
まるで焼け死んだ遊女たちの霊を
慰めるためのようにも見えてしまう。
さて、はてしてこの国際社交場跡は…
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ここだ。
横浜スタジアムのある横浜公園こそ、
開港当時、港崎(みよさき)遊郭街があった場所。
一度知ってしまうと、
知らなかったことにはできないな。
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