現実を見る目はもちろん、
やっぱり自分も見えてないといかんな
Not to speak of eyes understanding reality,
I must understand own thing, too.
さて、初のアメリカ総領事
ハリスと一緒に下田にやってきたのは、
オランダ人の通訳、ヘンリー・ヒュースケンだった。
当時、アメリカ人との交渉は、
英語から直接日本語ではなく、
英語→オランダ語→日本語の順に訳す必要があった。
つまり、当時の日本には
英語を話せる人間がいなかった。
いや…厳密には1人いた。
中濱 萬次郎…そう、ジョン萬次郎だ。
土佐の漁師だった萬次郎は
船が難破してアメリカ船に救われる。
その後、アメリカ人船長の養子となって
アメリカに渡り、オックスフォードで学んだ。
そんな日本初のアメリカ留学生、
中濱 萬次郎が母国に戻ったのは、
ハリスたちが下田を訪れる5年前の1851年。
当時すでに萬次郎は幕府に召聘され、
旗本待遇で黒船対応要員になっていたらしいが…、
職を奪われると感じたオランダ語通訳係が、
萬次郎にスパイ疑惑をかけ、
なかなか表舞台に出られなかったとか。
いつの時代も役人たちのやることと言えば
…保身ばかりなんだな。
それでも萬次郎は陰から交渉を支え、
1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため
遣米使節団が組織された時には、
そのメンバーの1人として、咸臨丸に乗り込み、
船酔いがひどく、まともに指揮をとれなかった
船長、勝海舟の代わりに、船内をしきっていたらしい。
明治維新後は開成学校(現・東京大学)の英語教授になる。
何度も政治家になるよう誘われたけど、
それを断って続けて、教育者として
1898年…明治31年に72歳の生涯を閉じた。
広い世界を知った男にとって、
小さな国で威張ってる政治家なんて
…魅力は感じなかったんだろう、ね。
一方、絵が不得意で、
図解説明が下手だったらしい。
だから…
言葉が上手になる必要があったのかもしれない。
偉い人は現実の世界も、
そして自分のことも、…シッカリ見る目があるよなぁ。
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