Episode No.719(20001215):悲しき17歳
今日、12月15日は力道山の命日・・・
だけど、12月8日に刺された話したばっかりだから別の話にしよう。
ちょっと日付はズレるけど・・・昨日、14日は赤穂浪士の討ち入りの日だった。
1702年の出来事だったから・・・今から298年前のコトになる。
動乱の戦国時代が終わり、世は天下泰平となったが・・・
それはそれでマンネリ生活に飽きた庶民にとって、仇討ち事件は実に刺激的だった。
忠臣蔵の主人公といえば大石内蔵助。
その大石をはじめとする四十七士は一躍ヒーローになったワケだが・・・
考えてみると、赤穂浪士たちは法を破った罪人。
寝首をかかれた吉良上野介は被害者である。
四十七士の最期はドラマでも有名だが・・・はたして、その後、吉良家はどうなったのか?
吉良上野介は討ち入りにあった時、すでに隠居の身で・・・
吉良家の家督は、上野介の孫で上杉家から養子にきた左兵衛義周(さひょうえよしちか)が、継いでいた。
幕府において、吉良家が代々就いていたのは「高家(こうけ)」という職。
役高は1,500石と高くはないが、朝廷関係の儀礼をはじめ江戸城中の儀式をつかさどる名誉職。
官位は大名並みだったというから・・・今で言う国務大臣か総務庁長官みたいなモンかな?!
まぁ、何事もなければ万事安泰だったんだけれど・・・
松の廊下事件以後、世間は浅野家に同情的で・・・吉良家はイメージダウン。
そうなってくると、組織というのは冷たいモノ。
何か理由さえあれば、吉良家を引きずりおろそうという空気が漂ってくる。
それを決定的にしたのが・・・討ち入り事件だった。
討ち入りがあったのは、吉良家の家督が上野介から左兵衛義周へ移った1年後のコト。
当時、左兵衛義周はわずか17歳だった。
討ち入りの知らせを聞いた左兵衛義周は、長刀を持って上野介邸へ助太刀に参上。
そこまではよかったが・・・
浪士のひとり、不破数右衛門に戦いを挑んだものの、額を斬られ、いちもくさんに逃げ出してしまった。
そのニュースが江戸中に広まって・・・左兵衛義周は「臆病者」の烙印を押されてしまう。
赤穂浪士が切腹した後、幕府の裁きは、左兵衛義周にもおよび・・・
「討ち入り当夜のふるまい不届きである」という理由で名誉職は剥奪され、領地も没収された。
左兵衛義周は衣類の着替えも許されない監禁生活の身に。
自殺のおそれがあるコトから、刃物は一切、手にできず厳窟王のような暮らしを余儀なくされた。
17歳からヒゲを剃るコトもできないまま・・・21歳の若さで死亡している。
忠臣蔵の物語で、一番つらい目に遭ったのは・・・この吉良左兵衛義周だったのかも知れない。
それも運命と言ってしまえば、それまでだけど・・・
左兵衛義周と違って、せっかく自分でボスを選べる時代に生きているんだから・・・
よく考えないとね。