Episode No.3736(20100815)
30年目の夏〜「白い蹉跌」のころ
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友だちを集めて自作の映画を作る。
死ぬ役で出演した親友が
完成直後、本当に亡くなってしまった。

私はそういう経験をしたことがある。
決して忘れることが許されない記憶だ。
神奈川県立舞岡高校、受験を迎える3年生の夏休み。

あれからちょうど30年目を迎える今年のお盆は、
このことについてあらためて書き起こしておこうと思った。

機会があれば、ぜひ舞高の後輩たちにも読んでもらいたい。

07 盟友たちの声

後になって聞かされたことだが、「白い蹉跌」をめぐるこの時ばかりはうちの両親もずいぶんと私の身を案じたらしい。
自分で考えて作った物語で死ぬ役を演じた友だちが、完成の1ヶ月後に本当に海で亡くなってしまった。その責任を感じて私がどうかなってしまうのではないか、と。

しかし、私は別のことを強く感じていた。
私には彼らの生きた証を記録するというミッションが与えられていたのだと。

そして同じようなことを私は、Eと別れてから24年後にも感じることになる。
「白い蹉跌」の時には冒頭のナレーションと製作補佐を担当し、その後、縁あって同じ会社で働き、「白い蹉跌」の頃と同じように私を補佐してくれていたSが厄年で病に倒れたのだ。

EとSは、もちろん友だちで、Sは森戸海岸に行方不明になったEを探しに行ったメンバーの一人でもある。

劇中に出てくるEが書いた日記は、当初「またオヤジに…」ではなく、「またオフクロに…」になっていた。
それを読んだSは「オヤジの方が自然だろ」と言って、結果、オヤジに書き直しすることとなった。
それはそれでよかったのだが、私はEの家庭に父親がいないことを知っていた。オヤジではなくオフクロになったのはEの自然な発想だった。
後でそれをSに伝えると、Sは「Eに悪いことを言ってしまった」と、ずいぶん悔やんでいた。
Sが悔やんでいることをまた別の機会にEに話すと「Sっていいやつだな…」と、つぶやいていた。

酒好きだったSは酔っていい調子になると「俺が一番感動した映画は“白い蹉跌”だ」と言ってくれていた。そんなSとも今は酒を酌み交わすことはできない。

今年も蝉の声を聞きながら彼らの墓参りに行ってきた。
当時は私だけバイクの免許は持っていなかった。だから私は私の落とし前を連中に見せつけるために墓参りには必ずバイクで行く。彼らの遺骨を納めた墓地は同じ鎌倉霊園にあるが、Eの墓石にも、Sの墓石にも、まだ彼ら一人ずつの名前しか刻まれていない。

思えば、小学校、中学、高校までを考えても、ひとクラス40人だとしたら単純計算で480人ものクラスメイトがいたはずだ。しかし、彼らほど強烈に私の人生に影響を及ぼした連中はいない。

父親と離れて暮らしていたEは父親になりたがっていた。

結婚して、なかなか子供に恵まれず、ようやく子供ができたと思ったら息子が3つの誕生日を祝った翌々日に亡くなってしまったSも無念で仕方なかったろう。

今や私の一番上の息子は、私が彼らと出会った頃と、ちょうど同じ年頃になっている。
そして中2の娘と小5の次男は、私がこれを書いている最中、代わる代わる部屋に来ては何だかんだと邪魔をする。
そんな思いも幸せのうちだと考えるのが正しいとこだと知りながら「あっちに行ってろ」とばかり口にしている中年親父の自分がいる。

17歳で逝ったEと41歳で逝ったSは、今ごろどんな会話を交わしているだろう?
年は離れていても、もちろん普通にタメ口をきいているに違いない。

E「S、おまえはまだいいんじゃん。
  ちゃんと大人になれたんだし…」
S「ちゃんとかどうかは知らんけど
  大人になんかならない方がいいって、
  いろいろ面倒くさいんだから」
E「だけど、結婚して子供もできたんだろ」
S「まぁな。でもさ、3つだったから、
  もう忘れられちまってるかもなぁ」
E「そんなことないって!
  それに、もしそうだとしたって…」
S「?!」
E「あいつらが話してくれるって…、
  俺たちのことはよ」
S「そうだな。
  あいつらには、
  もうちょっと面倒な思いをしてもらうか(笑)」
E「いろいろ面倒くさそうだけど、がんばれよー!」
S「いい土産話を待ってるよ」

【今日に続く(ひとまず完)】

♪Eが作曲・演奏している曲〈坂道
 E本人の台詞入り[mp3]


【この項目のバックナンバー】
 06 7月22日
 05 応援団
 04 坂道
 03 生徒会
 02 Eとの出逢い
 01 友人の死

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