Episode No.3734(20100813)
30年目の夏〜「白い蹉跌」のころ
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友だちを集めて自作の映画を作る。
死ぬ役で出演した親友が
完成直後、本当に亡くなってしまった。

私はそういう経験をしたことがある。
決して忘れることが許されない記憶だ。
神奈川県立舞岡高等学校、受験を迎える3年生の夏休み。

あれからちょうど30年目を迎える今年のお盆は、
このことについてあらためて書き起こしておこうと思った。

機会があれば、ぜひ舞高の後輩たちにも読んでもらいたい。
私と私の仲間たちは、舞高3期生。
妻夫木 聡が入学して来る、ずっと以前の物語。

05 応援団

校内の人気者であるEにはOちゃんという彼女がいた。

Oちゃんも同級生で高校3年。
外向的で活発なEとは違い、実に大人しい印象がある。
いつもEと一緒にいたのだが、たまに何か言うと…
「珍しくみんなの前でしゃべった!
 これでもうひと月はしゃべらないぞ!!」
…なんてEにからかわれて、頬を染めていた顔を思い出す。

「白い蹉跌」の撮影中も、傍らにはいつもOちゃんがいた。

撮影もしていた私は、8ミリカメラを片手に、Eが部活で練習している姿を追いかけ、2人が仲むつまじく歩く姿も撮った。
私には彼女などいなかったから、EとOちゃん、そして私の3人で、よく学校帰りにラーメンを食いに行ったものだ。

「白い蹉跌」という自主製作映画の中で死ぬ役をやっていたEが、映画が完成した後、本当に亡くなってしまったという話は、この文章の冒頭からしている。
彼女のOちゃんは、今どうしているのか?
残念ながら彼女もその後年齢を重ねることはなかった。実は亡くなったのはEだけではない。OちゃんもEと一緒に亡くなってしまった。
だから、EもOちゃんも、いまだ高校3年生なのだ。

映画が完成した直後、夏の選抜高校野球大会がはじまった。
神奈川県大会で我が舞岡高校の野球部が当たったのは、強豪・横浜高校。愛甲投手がいた頃の話だ。

生徒会長だった私は、せめて横浜高校の応援団には負けないよう、校内で有志を募り応援団を結成した。例によって会長指名で団長はEに頼んだ。

E以下、我が舞高応援団は、にわかづくりとは思えない硬派な応援ぶりを見せた。
結果は横浜高校に破れたが、おおかたの予想に反して高得点を上げ接戦となった。その後、甲子園のマウンドに上がった横浜高校が10点近くの差をつけながら最終的に全国優勝を果たしたことを思えば上出来だったと思う。その点差を見て「横浜高校が優勝なら舞高は準優勝だ」などと笑い合ったものだった。

保土ヶ谷球場での試合に敗れた後、惜しかっただけに悔しくて泣きじゃくる野球部員を見た応援団長Eは大声を上げて
「てめえら泣くんじゃねぇ」
…と怒鳴りつけた。

それを聞きつけた野球部のOBがEに「おまえに何がわかる」と食ってかかった。顔を付き合わせてにらみ合うEとOB。周囲は殴り合いのケンカがばじまるかとハラハラしていたが、Eが「男は負けたくらいで泣いちゃいけないんです」とOBを見上げると、OBはEの顔を見るや静かにEの肩に手をかけて言った。
「E、わかった。わかったよ」
その時、Eの真剣な眼差しは涙で真っ赤になっていたんだ。

とにかくEというやつは、真っ直ぐなやつだった。
Oちゃんも、そんなEに首ったけだったというわけだし、誰一人Eの悪口を言う者はいなかった。

そして運命の7月22日。

その日、Eと私は夏休みだというのに朝から学校で補習を受けた。
何かにつけて活発ではあったが…勉強には消極的な2人だった。エアコンもない教室で下敷きでパタパタあおぎながら、先生の言葉はどこかに飛んでしまい、蝉の声だけが耳に響いていた。

補習が終わって2人で裏門を出てしばらく行くと、Eは友人から借りた90ccのバイクを隠していた。これからOちゃんを乗せて海に行くという。

私は応援団の様子も8ミリで撮影していて、その現像がちょうど上がってくる頃。Eは明後日うちに来て、一緒にそれを見る約束をした。

「じゃあ、また明後日な」
…これがEと交わした最後の言葉になってしまった。


【この項目のバックナンバー】
 04 坂道
 03 生徒会
 02 Eとの出逢い
 01 友人の死

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