ウケるためには何でもしたシェイクスピアの戯曲は
原語では、かなり猥褻な部分もあるらしい。
それは当時の流行だったとも言われている。
むろん、
シェイクスピアの戯曲の原語で読む
…なんてことはできないけれど、
いろいろ検索してみると、
すぐに再婚した母を責めるセリフなどに、
そうした部分が見られるようだ。
思うに…
それは実際には再婚した母にではなく、
8歳上の姉さん女房に言いたかったこと
…なんじゃないのかな? あくまでも想像だけど、ね。
性欲こそ盛んだけれど、
まだ右も左もわからなかった自分を誘うだけでなく、
いきなり子供まで作って
自分の人生を支配してしまった女に対して、
愛情と同時に憎悪を感じた時があったとしても
決して不思議ではない。
とくに都に出て、そこそこの金も稼げるようになって、
華やかな劇場にいたわけだから、
見渡せば魅力的な女性もたくさんいただろうし。
にもかかわらず何で遊び盛りの自分が、
田舎に暮らす女房子供のために
仕送りに追われる生活をしなきゃならないんだ?
…なんてことを感じながら、
そのストレスを作品に封じ込めることも
間々あったのではないか。
一方…
物書きで生活できるようになったアンデルセンが、
それまでは文学の枠外にあった童話にステージを求めたのは、
貧困のために失われた子供時代への郷愁があったからに違いない。
去年惜しくも亡くなってしまった
マイケル・ジャクソンがネバーランドを作ったのと同じだ、ね。
アンデルセンの代表作
「みにくいアヒルの子」は、まさに自伝的な作品といえる。
シェイクスピアやアンデルセンに限らず、
結局、作家は自分に刻まれたものから作品を作り出している。
時代物を書くからといって
タイムマシンを持っているわけでもなく…
童話を書くからといって
アヒルになったことがあるわけでもない。
自分が実際に経験し、感じたことと
何か共通しそうな題材をそこに見いだし、
他人にわかるようにアレンジするために想像力を働かせる。
そこにテクニックはあるが、
何もないところからは想像さえ生まれないのだ。
昔、テレビの或る番組で、
経済評論家の竹村健一が
一緒に出演していたビートたけしを
「この人は例え話が上手い」と褒めちぎっていた。
ビートたけしが、
まだ映画監督になる前の話だったと思う。
上手い例え話をするためには、
例えられる題材を数多く知らなければならない。
さらに同じことを伝えたいとしても…
映画が好きな相手であれば映画の例え話を、
スポーツが好きな相手であれば
スポーツの例え話ができるようになると、
自分が言いたいことは、より相手に伝わりやすくなる。
ようするにシェイクスピアであれアンデルセンであれ、
作品というものはすべて例え話なんだろう、ね。
【敬称略】
─明日につづく。
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