Episode No.3266(20090213)
ルールの基本

ルールでがんじからめになった中に
独自性は生まれないが・・・
まず底上げを必要とする時には
・・・教育というルールによって磨かれる必要がある、な。

・・・と昨日書いたけど、
その前には・・・

脚本家の橋本忍先生の
学校の教育には何の独自性もない
・・・という言葉を紹介した。

ファイナンシャル・インテリジェンス
ロバート・キヨサキ氏も・・・
「学校の成績はテストによって決められている。
 テストのよくないところは、
 それが個人の作業であること」
・・・と言っているし、私もまさにそう思う。

教育は是か非か
・・・なんてことを論じても意味はない。
あるものは、あるんだから。

ただし・・・
必要とされる場面については
・・・考えなければならないだろう。

どんなに有用なものも、
それだけが常にあればいい
・・・ということではないから、ね。

NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」に
音文化学の藤枝守教授が出ていた。

バッハベートーベンも、
ひょっとしたらモーツァルトも・・・
我々が今知っている
黒塗りのピアノは知らなかった、らしい。

19世紀に入って、
ピアノが大量生産されるようになり、
あらかじめ調律しておく必要が出てきたために、
そこで初めて現代も使われている
・・・「平均律」が登場した。

それまで使われていた
ピアノの原型でもある
チェンバロやクラヴィコードは、
音色はおろか
一台、一台、調律も違っていたということだ。

したがって我々は、やっぱり・・・
本当にバッハの時代の人たちが作曲した曲を
今日も耳にできているわけではない。

ルールと教育は、
この大量生産とリンクした関係にあるのではないか?

つまり、
大量生産を効率的に行うために、
あるいは大勢を束ねるために
教育やルールは必要であって・・・
1点ものを作るには
実は邪魔なものなのかもしれない。

そう考えると・・・
1点もののシナリオを書くような時には、
既成のルールは邪魔で・・・
コーヒー農園のような
大量生産の現場に
教育が必要だという考えにも納得できる。

最も、真の教育の必要性は、
ルールに従える人間を作り出すことではなく、
ルールを作れる人間を生み出すことにある
・・・とは思うのだが。

ルールの基本中の基本は
・・・数をかぞえること、である。

数の概念という教育があってはじめて
誰もが目の前のリンゴが
「5個ある」という共通認識を持つことができる。

しかし・・・
その5個のリンゴをどう分けるのか
・・・その答えは
誰かが作ったルールによって決まる。

映画「おいしいコーヒーの真実」公式サイト