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Episode No.653(20000929):大船の父

松竹大船撮影所の話をしたら・・・絶対に話題にしなければならない人がいる。
名匠、小津安二郎監督のコトだ。

山田洋次監督と篠田正浩監督の対談にも、当然、小津監督の思い出話は登場していた。

東京・深川にあった肥料問屋の次男として、小津安二郎が生まれたのは明治36年=1903年のコト。
父親の名は寅之助。
『男はつらいよ』の車寅次郎の名前は、ここから来てるという説もあったような・・・。

19歳で松竹蒲田撮影所に入社。
その年の9月・・・小津は撮影所の中で関東大震災に遭った。

1927年、24歳で監督に昇進。
監督5年目に撮った『生まれてはみたけれど』でキネマ旬報ベストテンの1位を獲得。
以後、常連のベスト1監督となるが・・・決して順風満帆の道のりではなかった。

徴兵・・・そして親友、山中貞雄監督の戦地での病死。
さらに息子のように可愛がっていた俳優、高橋貞二も交通事故で失っている。

ホームドラマしか撮れないマンネリ監督と言われた時期もあり・・・
その殻を破ろうとして作った『東京暮色』は決していい評価を受けなかった。

しかし、世界が認めるように・・・小津安二郎の功績は大きい。

「小津映画は小津にしか作れない。
 派手さや突飛なことに一切頼らず、一見マンネリとも思える映画を作り続けることほど力量が問われる」

小津監督の生涯を描いた本の一節に思わずうなづいた。
その力量は確実に松竹の後輩たちに受け継がれたと思う。

伝説の監督に、まつわるエピソードは数多いが・・・

中でも印象的なのは、戦時体制の頃・・・監督昇進を決めるのに軍が介入してきた時
立ち会った小津は周囲の反対を押し切って、ひとりの若い監督を誕生させた。
それが、黒澤明だったとか・・・。

名作『晩春』を撮影している時
「慟哭(声をあげて激しく嘆き泣くこと)してくれ」という小津監督の言葉に
笠智衆が「男がそんなことはできません」と逆らって、あの有名なラストシーンが出来上がったとか・・・

セット内の置物を1cm単位で移動させて・・・
納得のいくまで半日でも撮影を開始しなかったなんてコトは日常茶飯事だったらしい。

長男の嫁と折り合いが悪かった母親を引き取って2人で暮らし・・・
原節子とのロマンスが噂されていながらも
スタッフが女優に手を出してはならないという教えを守り、生涯独身を通した小津安二郎は・・・
母の死の1年後、1963年12月12日・・・ちょうど60歳の誕生日にガンで亡くなった。

高橋貞二と同じく、小津を父親のように慕った佐田啓二が交通事故死したのは、その翌年のコトである。

「私は大人に観てもらう映画を・・・
 観客の気持ちが大人になる映画を作りたいのです」

そう語った小津監督の映画を・・・じっくり見直してみようかな。
そろそろ、そういうコトがわかる歳になってきたかも・・・知れない、な。


参考資料:「小津安二郎の謎」原作=園村昌弘 作画=中村真理子 小学館=刊