お吉と喜遊・上
OKICHI & KIYU.
開国の舞台裏における二大悲劇のヒロイン…
下田のお吉と横浜の喜遊(きゆう)について、
あらためてプロフィールを比較してみると、
いくつもの共通点が見えてくる。
唐人お吉、こと、斎藤きち─
天保12年11月10日(1841年12月22日)、
現在の愛知県南知多町内海の生まれ。
父は船大工。次女。
一家は、きちが4歳の頃、下田に移住。
岩亀楼の喜遊、こと、箕部喜佐子─
弘化元年(1844年)江戸生まれ。
父は町医者にして攘夷論者。その他の家族は不明。
文久元年12月(1861年11月)、
病に倒れた父の治療費がかさみ、
借金返済のため、横浜・岩亀楼に身売り。17歳。
一方、きちの父も下田で病に倒れている。
父親を献身的に看病しているきちの姿を見た、
河津城主向井将監の妾・村山せんが関心し、
7歳のきちを養女にしたという。
医者の娘だった喜遊は、
琴、三味線、茶道、生花、和歌など、
当時の女性としてはレベルの高い教育を
受けていたことが、
遊女となってからも人気を集める要因となった。
また、きちも、
貧しい船大工の娘から、
城主の妾の養女となったことによって、
琴や三味線を嗜むことができたようだ。
きち、13歳の時、安政東海地震が発生、
下田は壊滅的な被害に遭う。
この地震の影響で河津も大変な被害に遭い、
城主向井将監も妾を養うどころではなくなった。
14歳で離縁されたきちは
芸者となり「お吉」を名乗る。
唐人お吉物語での、お吉は、下田一の人気芸者だが、
実際には漁師相手の洗濯女だったという説もある。
最も巨大地震直後の下田でのこと、
人気芸者であっても、たいしたお座敷仕事はなく、
日常は洗濯女として
働かざるを得なかったのかもしれない。
アメリカ総領事・ハリスの侍女として、
お吉が玉泉寺に通ったのは、
喜遊が岩亀楼に身売りしたのと同じ、17歳の時だ。
17歳といえば…今のうちの娘と、ちょうど同じ。
15でネエヤは嫁に行き♪…という歌もあったが、
昔は15、16、17で、
自分の人生を決める決断をしていたんだな。
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