でじたけの「人生日々更新」喜遊の杞憂

Episode No.4549(20130320)[偉人]Great man

喜遊の杞憂
Tragedy of KIYU.

横浜開港から7年後、
1866年11月26日…
関内で起きた大火、通称・豚屋火事
港崎(みよさき)遊郭にいた
400人もの遊女を焼き殺すという
悲劇を生んだが…
遊郭街の跡地は、
日本人にも解放された
国内初の西洋式公園として生まれ変わり、
皮肉なことに、
関東大震災の時には大勢の人たちが、
避難場所として利用することになった。

さて、この大火より4年ほど前、
港崎一の遊郭、岩亀楼(がんきろう)にいた
人気の遊女、喜遊(きゆう)は、
日本人しか相手にしないことを条件に
身売りしたにもかかわらず、
外国人に言いよられて苦慮していた。

その外国人は、
ペリー艦隊の軍人とも言われているが、
もうその時にペリー艦隊はいないはずなので、
アメリカ人を装っていたフランス商人だった
…という説が正しいように思う。

いずれにせよ、最終的にその外国人は
政治力を使って、喜遊を我がものにしようとした。

このあたりの経緯は、
下田の唐人お吉伝説に近いものがあり、
お吉と喜遊は開国の舞台裏における
二大悲劇のヒロインとして小説にもなっている。

喜遊の本名は、箕部喜佐子だと言われている。

江戸時代の町民であったにもかかわらず
名字を持っているのは、喜佐子の父が
ある程度の地位にいた町医者だったからだ。

その父が攘夷派…
つまり外国人を排除する思想の持ち主だった
…が故、娘、喜遊も不幸な道を進むことになる。

文久2年11月23日(1862年1月12日)。
喜遊こと箕部喜佐子は、絶対的な抵抗を見せる。

武士の作法にのっとって自害したのだ。
享年19歳だったといわれている。

喜遊をはじめ、岩亀楼の女郎たちが
病気になった際に利用していた寮があった戸部界隈は、
今も岩亀横町と呼ばれている。

関内の隣、桜木町と地下鉄・高島町の間を入った辺りだ。

そして、そこには、
女郎たちが幸せを祈った岩亀稲荷が残っている。

人の思いというものは、
いつの時代も変わらないな…。

だから…人生、日々更新。

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