Episode No.2745(20070608):
話せば嘘になる
深夜、独り晩飯を食べる。
テレビをつけるが面白い番組がない。
食卓にノートPCを開いて
久々にGyaOにアクセスしてみる。
何故かドキュメンタリーのカテゴリーが見つからない。
なくなっちゃったのか・・・? 残念。
しょうがないので映画のカテゴリーを開いてみると
「ロッキー」があった。
さんざん観てるしDVDも持ってるのに
チラッと観ようと思って再生をはじめたら
・・・結局最後まで観てしまった。
この映画を最初に観たのは確か中学1年の時。
ロードショーを友達同士で観に行った。
いい映画は、いい本と同じで
繰り返し観ても観た年齢なりの見方ができて
新しい発見がある。
今回は脇役ばかり観ていた。
グータラで小心者の
エイドリアンの兄貴をはじめ・・・
もともとロッキーを小馬鹿にしていた
トレーナーのミッキーとか・・・
ロッキーに借金の取り立てをやらせていた
ヤクザの親分とその運転手とか・・・
ロッキーが街角で出逢う
タムロする若者たちとか・・・
まるで吹きだまりのような、この小さな世界で
ロッキーが変わっていくことによって、
まわりの人たちもどんどん変わっていくところに、
あらためて人間ドラマを感じた。
とくにヤクザの親分が
チャンピオンとの試合が決まったロッキーのタバコを
「健康に悪い」と取り上げるシーンは好きだな。
あと忘れられないシーンは・・・
自分をマネージャーにしろと
ミッキーがロッキーの家を訪ねるシーン。
申し出を断ったトイレに籠もるロッキー。
ミッキーは仕方なく帰ろうとして
一度ドアを開けるが、
帽子を忘れたことに気づいて、
そのままドアを閉じる。
ドアの音がしたので、ミッキーが帰ったと思って
トイレから出てくるロッキー。
そこでまた帽子をかぶるミッキーと目があって
再びトイレに入ってしまう。
説明的なセリフではなく、
動作と音で気持ちが伝わってくるというのは
何とも映画的だと思う。
チャップリンの「街の灯」で
盲目の花売り娘が
渋滞する車の中を通り抜けてきたチャップリンのことを
金持ちの紳士だと勘違いする名シーンに通じるものを感じた。
映画の動作というと
派手なアクションばかり話題になるけど、
こういう何気ない動きの方が
考え出して演出するのは難易度は高いだろう。
このところまったく書いていないけど、
シナリオを書こうとすると、
どうしてもセリフに動きをのせようとしてしまう。
しかし、実際の生活の中では
動きがまず先にあって・・・
そこに必要最低限のセリフが付いてくるだけだと思う。
何故そういう動きをしたのか、という
他人への説明は少なくて済む。
むしろ・・・
何故そういう当然と思える動きができなかったのか
・・・という場合には、
本人だけが説明と呼んでいる言い訳が長くなる。
そして・・・
ロッキーが淋しく帰路についた
ミッキーを追いかけて和解するシーンや、
とにかく恋人の名前を叫ぶラストシーン。
また「街の灯」の切ないラストシーンのように、
肝心なところで人の気持ちを動かすのに
・・・余計なセリフはいらないんだ。
話せば嘘臭くなってしまうけど・・・
感じるものに嘘はないから、ね。