生きてるうちに何かをして、
何かを遺したい…という思いは誰にもあると思う。
こと芸術家にとって、その思いは強烈だ。
絵画にせよ、写真にせよ…
それは、ほうっておいたら流れてしまう時間の中に、
自分という存在が確かにあって、
その自分が感じた瞬間を封じ込めたものである。
何か言いたいのか? などということは、
まずどうでもいい。
そこに自分がいた証として
そこにいた自分が感じたものを
できる限りストレートに
そのまま誰かに伝えようとしているだけなのだ。
線 幸子さんという画家の
“綿による空間絵画”という展覧会を観た。
たまたま訪ねていった美術館でやっていたから、
もちろん線 幸子さんについても、
綿による空間絵画についても何の予備知識もない。
ようするに“綿”なのだ。
“綿”によってさまざまな表情が描かれている
…から、やっぱり絵画なんだろう。
この文章を書くに当たり、
線 幸子という名前を検索してみたら、
この展覧会の案内がいくつか出た来た。
ブログで紹介している人もいた。
曰く…
写真ではこの作品を理解できません。
実物を目にしないと何なのか分かりません。
…確かにその通りだ。
この作品は実物を見なければわからない。
見る角度によっても表情や色合いが変わる。
小川のせせらぎが
一瞬のうちに凍りついたようにも見えれば、
床を這うドライアイスの煙のようにも、
はたまた雲を切り取ってきたようにも見える。
自分が感じた一瞬を永遠に封じ込めたい…
そんな気持ちの裏側にあるのは、
それを見た別な誰かと思いを共有する喜びだろう。
あるいは、そんな思いを共有できるのは、
自分など、とうにいなくなった後、
遠い未来の誰かかもしれないけれど…ね。