ジョン万次郎といえば誰もが知る
日本で最初にアメリカに渡った人物。
幕末には通訳として活躍し、
日本の歴史に名を刻んだが、
アメリカ行きのきったかけとなったのは
漁船が難破し、
それを異国の船に助けられた
…というのも有名な話だ。
では、万次郎は、
こうした偶然が重なって
自然に異国で暮らす機会を得、
英語を会得して日本に戻ったのか?
…といえば決してそうではない。
船が嵐で難破して無人島に漂着した時、
万次郎は4人の仲間と一緒だった。
その後、アメリカの船に助けられ、
アメリカに向かうが…
万次郎以外の4人は、
途中、ハワイで下船して日本に帰っている。
船長に気に入られて、
話に聞いたアメリカへの夢をふくらませ、
すぐに親元に換えることより、
この千載一遇のチャンスを活かし
留学を決心したのは万次郎ただ一人。
…15歳の決断があった。
同じように…
貧しい時代に親と離れて奉公した
早川徳次と松下幸之助にも
淋しさを仕事で埋めてやろうという決断がある。
早川徳次や松下幸之助に限らず、
この時代には数え切れない人たちが
同じような苦しい生活の中にいたことも確かだ。
しかし、そんな時に…
まわりも苦しいから仕方がない、と
周囲とのバランスを見て安心を求めるのか、
それとも自分自身に問いかけて、
自分になかったものを取り入れることによって
バランスをとろうとするのか…で
後の生き方は大きく異なってくるように思う。
安易な対処をしたいたのでは成長は期待できない。
かんざしや精巧な金属製品を
加工する仕事に就いていた徳次は、
仕事に熱中することで淋しさを紛らわした。
継母に父親をとられた
…という思いが強かった徳次は、
奉公先の親方に父親を感じていたのかもしれない。
ただ、食うためだけでなく
親に誉められることのなかった少年は、
親方に誉められようと懸命に腕を磨いた。
腕が上がると
自分で考案した金属製品を作ってみたくなる。
19歳で金属加工業として独立開業した徳次が
最初の特許をとったのはベルトのバックルだった。
まだ洋服が珍しかった時代だったが、これは飛ぶように売れた。
時代の少し先を見れば儲かる商売ができる。
…彼はきっとそう感じ、
商売そのものの面白みも知ったに違いない。
後に大ヒットとなる
徳次が発明した金属製品が…シャープペンシル。
しかし、これは発売当初は、まったく売れなかった。
徳次、22歳。
どうしてこんなに便利なものが売れないのか?
ここで彼は商売の難しさを痛感することになる。
一方、自転車屋で奉公していた松下幸之助は、
初めての給金を手にした時、商売に目覚めた。
一代で巨大企業を作り上げた松下幸之助だが、
90歳を過ぎた頃のインタビューでも
今までで一番嬉しかったことは何かと聞かれて、
「最初に5銭の給金をもらった時」
…だと答えている。
11歳の頃、離れて暮らしていた母と姉が
幸之助が暮らす大阪に出てくることになり、
母の提案で一緒に暮らす機会を得たが…
父親は、さらに幸之助を鍛えるために、
その提案を承諾せず、奉公暮らしを続けさせていた。
幸之助は、ますます商売にのめり込んでゆくことになる。
自転車屋に来る客が、
よく小僧の幸之助に煙草を買ってきてもらうよう頼んだ。
給金を貯めていた幸之助は、
いちいち買いに行くのも面倒だし、
客に早く煙草を渡せるようにと、煙草をまとめ買いしておくことにした。
すると、まとめ買いであれば1箱おまけがつく。
そこで差益も出るとあって、しばらくことを続けて、
客に喜ばれると同時に自分も儲けていた。
…が、そのことは他の奉公人の反感を買ってしまい、
やがて主人に禁止されることになる。
こうして松下幸之助は、
商売において正しいだけでは勝てないことを
12、3歳にして知ることになった。
【敬称略】
─明日につづく。
※昨日のページ