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Episode No.203(990421):生みの親より育ての親

世界史にその名を残したフランス皇帝、ナポレオンは、実はフランス人ではない。

ナポレオンが誕生したのはイタリアの西方、フランスの南の海に浮かぶコルシカ島。
ジェノバに支配されていたコルシカは、20年にもおよぶ独立戦争を行ったが、ちょうどナポレオンが誕生した1769年にフランス領となった島である。

コルシカには、コルシカ語という独自の言葉があり、それはイタリア語に近かった。
ナポレオン・ボナパルトはフランス語読みであり、コルシカ語で発音すると、ナポレオーネ・ボナパルテ。
コルシカの誇りを大切にした彼も、幼少の頃は「ナポレオン」と呼ばれることを嫌い、あくまでも「ナポレオーネ」だと胸をはった。
ナポレオーネはコルシカ語で「荒れ野のライオン」を意味している。

そんな彼が、フランスに渡ったのは9歳の頃。
時のフランス国王のはからいで、コルシカの子供たちにもフランスで教育を受けるための援助金が出されることになり、兄とともに、まずフランス語を覚えることから勉強は始まった。

その後、性格的におとなしかった兄は僧侶の学校へ。
そして「荒れ野のライオン」通りの性格に育っていったナポレオンは、陸軍幼年学校へと進んだ。

フランスの軍人となった彼が、休暇をとってコルシカに戻ったのは、それから9年8ヶ月後のこと。
17歳になった彼は、いまだコルシカの独立を夢みていた。

それから3年、フランス革命がはじまる。
王政が廃止され、
ルイ16世マリー・アントワネットをはじめとする要人が、次から次へとギロチン台にかけられる恐怖政治が行われる中、コルシカでも、この機会に独立戦争を起こそうという機運が高まりつつあった。

フランス軍隊の脅威を知るナポレオンは、反対にまわったが、故郷の人々に裏切り者あつかいにされ、一家はコルシカを離れることになる。
彼が自分をナポレオン・ポナパルトと名乗るようになったのは、この時からである。

混乱の世の中にあって、数々の功績をあげたナポレオンが国民の支持をあつめて一気に皇帝にのぼりつめたのは1084年。35歳の時である。

その後、ロシア遠征に失敗して45歳で皇帝をしりぞいたナポレオンは、エルバ島へ流されるが、翌年、皇帝に復帰。
しかし、ワーテルローの戦いにやぶれ、セント・ヘレナ島に流され、ガンのため51歳の戦いの生涯をとじた。

エトアールの凱旋門は、ナポレオンがフランス軍の勝利と栄光を記念して1806年に着工を命じたもので、完成したのは30年後。
完成した4年後の1840年に彼は遺体となってこの門をくぐり、遺言通りセーヌ川のほとりに安置された。


参考資料:「世界の伝記/ナポレオン」木村尚三郎=監修 集英社=刊

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