でじたけ流 教育論「縁を得る方法 」
 
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20141221

でじたけ流 教育論750回「縁を得る方法」

でじたけ流教育論 digitake.com


大学3年の長男から…
レポートで
“縁”について書かなければならないが、
考えてみると自分にはまだ
“縁”といえるほどのものがないように思う。
“縁”…って何だろう?
どうしたら“縁”を感じられるだろう?
…と質問された。

たまたま都内で出会った人が、
高校時代、海で亡くなった友人の事故を
30年以上前に間近で目撃していた人だったり…。

自宅から100km離れた場所に購入した土地の向かいに
高校時代の先生の息子が住んでいたり…。

伊豆半島の先っぽにある割烹料理屋に、
たまたま行くようになったら、
そこの店長が、またまた高校の後輩だったり…と。

高校時代がらみの“縁”は実に多い。
全国に知られた有名私立高でもない、
ただの県立高校なのに、ね。

時折、都内に出ると、
アッという間に何千、何万もの人たちと
すれ違っているというのに…。
その中で“縁”がある人と出会えるのは希有なこと。

そうした…まさに“縁”だらけ、
ほぼ、“縁”によって生かされている父親に対し、
長男の質問はもってこい…だ。

もちろん、こんな偶然は、
真似しようったって真似できるものではないだろう。

ただ、あらためて思い返すと、
そうした一種運命の出会いには、
その時の自分の感情に共通したものがないではない。

それは…実は億劫に思っていた方向に強いて進んだ時。

慣れたことをするのに、さしたる苦はない。
その代わり、
慣れたこと、想像がつくことばかりしていては、
想像以上の何かに出会うことは、まずできない。

どうしようかな…と迷う時というのは、
想像のつくもののほかに、
ハッキリとした理由はわからないが、
気にさせる何かがあるものだ。

視線を感じて振り向く…ということがあるけれど、
それは、まさに
運命の視線を感じているのかもしれない。

その得体の知れない力に応じて、
自ら行動を起こすか、起こさないか…が、
“縁”と出会えるかどうかの分かれ道に違いない。

“縁”は紛れもなく“運”。

ま、結局、
“運”がいいだけの話かもしれないけど、ね。

やっぱり…人生、日々更新

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