世間から「大人」と見られる年になってみると、
自由だった「子供」時代はよかった…なんて
感傷に浸ることも一般的には少なくないだろう。
…が、実際に子供たちを間近で見ていると、
不自由な“不満の塊”であるようにも思える。
身体が小さい時には、
棚の上の物も満足に取れず実に不自由だし…
小遣いも少なければ、
遠足のおやつだって上限が決められているし、ね。
テレビを見たり、
ゲームばかりしてると言っては怒鳴られ…
うちじゃあ、まず父親は勉強の邪魔はしても、
勉強しろとは言わないけれど、
学校では試験に追われ…
箸の持ち方が悪いと言っては叱られ…
ただ立っているだけなのに、
背中が丸い、と注意される始末。
親の管理下にいる子供たちの
いったいどこに自由があるんだ?と
子供たち自身は感じていることだろう。
私もつねにそう思っていた。
だから、早く「大人」になりたかった。
「子供」時代はよかった…と「大人」が思うのは、
「責任」を課せられていなかった頃を
ただ懐かしく感じているだけじゃないだろうか。
だけど…
「責任」がない、ということと
「自由」だということは根本的に違う。
むしろ…
「自由」であるためには「責任」がつきまとうものだ。
ただ現状から逃げ出したい一心で
人は時折、虚しい勘違いをしようとする。
自分の気持ちを楽にしたくて、
ないものねだりをしてしまうんだ、ね。
だけど、そんなものはない、と
覚悟を決めない限り…次のステージには進めない。
そりゃあまるで、
アイテムをゲットしないと次に進めない
ロール・プレイング・ゲームと同じことだ、よな。
私は決して過去に戻りたいとは思わない。
死んでしまった奴らと、
また会いたいとは思うけれど…
少しばかり長生きしている者として、
再会した時にできる、いい土産話を持たなければ
…会うのも恥ずかしいだろう。
過去を懐かしいとは感じるけれど、
過去に戻ってやり直したい、なんて
非現実的なことを考えている余裕はない。
さりとて…今がベストだとも思わない。
ただ、数年経てば…
きっと今のすべてを懐かしく感じるだろう
…いつも、そんな風に感じながら、
それを“いい思い出”にすべく淡々とやるだけ。
子供だろうと、大人だろうと、
ビートルズだろうと、宮崎駿だろうと、
みんな不安と不満を抱えて生きている。
いくら部屋の模様替えをしたところで、
同じ部屋にいたのでは、
陽か差し込む窓の位置も天井の高さも変わらない。
どんな時代のどんな人間になったところで、
自分を変える術を持たない者に
新しい喜びを得ることなどできないだろう。
そして…
そういうことを子供たちに刷り込むためには
優れた文学より、まず
…親の生き様が問われるよ、な。