Episode No.770(20010213):喜びも悲しみも・・・人一倍
「仕事を耐えず工夫していると
あまり知恵のない人でも、その仕事には自然に知恵がわいてくる」
約500の営利事業にくわえ、約600の非営利事業をも手がけた男。
・・・渋沢栄一は、こう言って労働者たちを激励し続けた。
渋沢が設立にかかわった組織は、もちろん現在も数多く残っている。
第一勧業銀行、東京海上火災保険、石川島播磨重工業、東洋紡、清水建設、王子製紙、秩父小野田セメント、新日本製鐵、東京工業会議所、東京証券取引所・・・などは、ほんの一例。
誰に言わせても渋沢栄一は、日本資本主義の父である。
今日、2月13日は渋沢栄一が生まれた日。
今から161年前の1840=天保11年、渋沢は埼玉の豪農の家に生を受けた。
ちなみに2月11日は、トーマス・アルバ・エジソンの誕生日だった。
エジソンは1847年生まれだから、渋沢より7つ年下だが、ほぼ同世代。
渋沢がエジソンと出逢ったのは1909年。
渋沢が訪米実業団の団長として、エジソンの工場を訪ねた時のコトだ。
「この世で最も大切なのは道徳である」
という共通の価値観が2人を結びつけ・・・以来、親密な交流があったらしい。
エジソンが発明した電球のフィラメントに日本の竹が使われていたのは有名な話だが・・・
晩年はベッドのわきに新渡戸稲造が書いた『武士道』を置いていたほど日本に惹かれていたコトはあまり知られていない。
そのことを知っていた渋沢は、エジソンを「武士道の魂を持つ発明家」と絶賛していた。
武士道の捉え方にもいろいろあって、ひと言で説明するのは難しいが・・・
渋沢とエジソンが共通の「道徳観」そして「武士道観」に見いだしていたものは・・・
どうやら「慈悲の心」だったようだ。
「慈悲」なんて書くと、ますます宗教がかってしまうけれど・・・
簡単に言えば「相手を思いやる心」。
それが渋沢の事業とエジソンの発明の原動力となっていたと言っても過言ではないだろう。
渋沢にしてもエジソンにしても・・・
「自分とその周囲が食べていければ充分」と考えていたとしたら・・・
渋沢は何百もの組織を作って人を使う必要はなかったし・・・
エジソンは特許の数だけでも1,913という発明をして工場に寝泊まりするコトはなかったろう。
ただし、2人は事業家だから・・・決して犠牲的精神でコトに向かっていたとは思えない。
やっぱり・・・
人が喜んだり、驚いたりするのを見るのが・・・人一倍好きだったんだろうね。
91歳の天寿を全うした渋沢栄一は晩年・・・
エジソンが発明した蓄音機を前に
「これで自分の肉声が永遠に残せる」と、たいそう喜んだ・・・という話。