Episode No.614(20000815):残したくなかった遺産 本来は8月6日にすべき話だったんだけど・・・ 今日は終戦記念日なので、関係が深い話。 「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」=世界遺産条約が結ばれたのは1972年。 1999年12月現在、世界中で630件の古代都市の跡や優美な自然を残す場所が世界遺産に指定されている。 日本では、法隆寺や姫路城、屋久島・・・最近では'99年11月に日光の社寺が登録され・・・ 全部で10件の世界遺産がある。 そのうちのひとつが・・・広島県産業奨励館だ。 産業奨励館と聞いても「何それ?」と思う人は多いだろうけれど・・・ 広島といえばピンと来る人も少なくないはず。 そう、広島県産業奨励館は「原爆ドーム」の正式名称だ。 私も修学旅行の時に見た覚えがある。 丸い天井の骨組みを無惨にさらした姿は、平和への願いを象徴して建ち続けているが・・・ 「あの日のことを思い出して不快な気分になる」とか 「原爆があの程度の破壊力しかないと勘違いされては困る」といった理由で・・・ 1960年当時には、一時、取り壊すコトも決定したらしい。 1945年8月6日、予定された投下地点から約240メートル離れた産業奨励館の真上で原爆は炸裂した。 爆風がちょうど垂直に当たったために、たまたまあのようなカタチで建物は残ったが・・・ これが少しでも斜めにズレていたら、跡形もなくなっていたという。 最も当時、この建物で働いていたはずの約120人の人々は一瞬のうちに蒸発してしまったけれど・・・。 広島県産業奨励館は、広島県知事の依頼によって・・・ 1913年からチェコスロバキアの建築家ヤン・レツルの手によって設計が開始された。 レツルは1909年から国内に建築事務所を構え、上智大学や聖心女学院、上野精養軒、宮島ホテルなどを手がけた建築家だ。 建物は一部に鉄骨を使ったレンガ造り・・・面積は1,023平方メートル。 地上3階、地下1階で、ドームの一番高いところまでは25メートルある。 あのドームの部分だけは5階建てになっていて、展望室が設けられていた。 広島県内ではもとより、中国地方でも初めてのヨーロッパ建築は人々の目を引いた。 完成したのは、レツルが仕事を請け負ってから2年後の1915年。 奇しくも・・・原爆が投下された、ちょうど30年前の8月6日が開館日だった。 まさに、原爆ドームとして後世に残るために造られた建物であるかのような因縁を感じる。 一旦は取り壊しが発表された原爆ドームは、その後、反対の署名や修復費用の募金に支えられ・・・ 1966年、広島市議会で永久保存が決定・・・1996年、世界文化遺産に登録された。 第二次世界大戦によってできた負の遺産としては・・・ ポーランドに残るアウシュヴィッツ強制収容所に次いで、2番目の世界遺産となった。
参考資料:「世界遺産35の謎の収集」歴史の謎研究会=編 青春文庫=刊
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