以前ご紹介した水戸黄門に関するエピソードに、ちょっとだけ水を差す記述を発見した。
愛妻家だった光圀が、妻を亡くした後、旅を愛するようになったことに間違いはないらしい。
ただ、それがテレビドラマに見るような全国行脚だったか・・・と言えば、実際にはそうではないようだ。
光圀が歩いたのは、地元水戸領内と江戸との間。
足をのばしても、西はせいぜい熱海の温泉につかりに行ったという記録しか、実際には残ってないらしい。
つまり、全国各地を旅して悪代官をこらしめたというのは、まったくの創作・・・ということになる。
もちろん、この手の物語に創作が多いのは決して珍しいことではない。
子分の数が、600人とも1,000人とも言われる街道一の大親分、清水次郎長にしても、実際にいた主だった子分と言えば清水の28人衆どころか、せいぜい5〜6人だった・・・という話もある。
歴史上の人物として人気が高い坂本龍馬にしても、多くの人が思い描く竜馬像は、司馬遼太郎が書いた「竜馬がゆく」の小説に書かれた竜馬であって、本当のところ、どこまで事実に基づいているのかは定かではない。
こうしたヒーロー像は、民衆が望んで創り上げている。
いわばニーズにマッチした人物像である。
それはそれで楽しめればいいし、多少事実と違っていたところで罪はない。
しかし、書かれた歴史にはそれなりの怖さもある。
法律家は、これまでの裁判における判例をもとに今抱えている問題を解決しようとする。
しかし、判例に残っているものの多くは、その「結果」であって、「過程」における当事者たちの苦しみをはかり知るのは難しい。
国会では、いわゆる「ガイドライン法案」が設立したが、この時、国会を組織する人の構成がどうだったか・・・賛成派と反対派の力関係は、いかに作り上げていったのか・・・ということまでは法律には書かれないだろう。
無論、そんなことを言っていたのでは、何ひとつ決められない。
しかし、結果として残された内容が、いかなる状況の中で生まれてきたのかを知っておくことは、本質を知るうえで、ものすごく重要なことだと・・・思う。
最もそれを逆手にとって、不都合なことは一切書かない自伝を残しておく・・・という手もあるが。