明治17年(1884)1月4日、急ピッチで近代化が進む日本でひとつの新しい法律が公布された。
「賭博犯処分規則」と言われるこの法律を受け、全国の博徒は一斉に逮捕されることになった。
年は65を過ぎ、すでに博徒の道からは遠のいていたばかりか、地元の開墾事業に精力をそそいでいた長五郎にも新しい時代の法律は容赦なく適用された。
"長五郎の逮捕"のニュースは、身内はもとより、これまで彼の元で世話になった数多くの人々や、彼の実直な性格に好意を感じていた政府側の人間にまで大きな動揺を呼んだ。
長五郎には子供はなかったが、養子がひとりいた。
長五郎の養子・天田五郎は、のちに有栖川宮家にも仕えた学の高い男で、長五郎の特赦を求めるには「世論を動かすしかない」と考えた。
そのため天田五郎は、これまでの長五郎の功績を中心に一冊の本をまとめ上げた。
題名は『東海遊侠伝〜一名 次郎長物語』。
次郎八という養父のもとで育った長五郎、略して次郎長。
静岡県清水市で一家を構えたことから、清水次郎長としてその名を知られた街道一の大親分である。
次郎長の実直な性格に惚れ込んでいた政府側の人間のひとり、山岡鉄舟のはからいで『東海遊侠伝〜一名 次郎長物語』は、有力出版社から発刊され、題画は鉄舟自身が描き、題字は勝海舟が担当した。次郎長の逮捕は2月、この本が出版されたのは4月という早業である。
こうした釈放運動の甲斐もあり、次郎長は翌年の11月に仮釈放となる。
『東海遊侠伝〜一名 次郎長物語』は、後に神田伯山によって講釈(講談)化され、伯山の車引きをしていた広沢虎造によって浪曲となった。
昭和初期に「旅ゆけば〜」で爆発的な人気を誇ったのは二代目広沢虎造である。当時、寄席のオーナーは虎造をひと月呼ぶことができれば別荘を持てたという。 |