昨日、オランダのチューリップの話を書いてたら、静岡のお茶の話を思い出した。
いわゆる産地というものには、産地となるべき理由が必ず存在している。
静岡がお茶の産地として知られるようになった背景には、もちろん温暖な気候や水の良さはあるが、お茶をたくさん植えることになったのには、やはり理由がある。
広沢虎造・・・と言っても、今や知る人は少ないだろうが、昭和の初めから戦後にかけて活躍した浪曲師で、正確には二代目広沢虎造。
その十八番が「旅ゆけば〜」で知られる清水次郎長伝だ。
この浪曲に非常に興味を覚えたことがきっかけとなって、幕末から明治維新を生きた通称、次郎長=山本長五郎について、自分なりに研究をしてみたことがある。
学校で習う明治維新は、いわば政治の世界だけの話だが、次郎長を調べていくと、その頃の庶民の生活がわかってきておもしろい。
大政奉還・・・と言ったところで、その意味がわかる庶民など、それほど多くはない。
次郎長が住んでいた静岡には、徳川最後の将軍、慶喜が隠居生活を送るために移り住んできたことが、庶民にとっての一大事だった。
いかに没落した将軍と言えども、とりあえずお付きの武士は大勢いる。
しかも武士としての資格は失っているので、付いて来たところで仕事はない。
失業者が増えると犯罪が増えるのは、今も昔も変わらない。
そこで旧幕府側の重臣で、勝海舟と西郷隆盛の会見を実現した陰の立て役者、山岡鉄舟は、かねてより顔見知りだった地元の顔役、次郎長に命じて、没落武士の仕事を世話させた。
次郎長は、武士たちを農家に振り分けて開墾作業をさせ・・・数多くのお茶畑を作った・・・というワケ。
次郎長モノの映画などを見ると、三度笠をかぶった清水一家が、お茶畑の中をさっそうと歩くシーンがよくあるが、実際のところ次郎長が刀を振り回していた時代には、それほど多くのお茶畑はなかったはずだ。
晩年の次郎長は「自分の親分は山岡鉄舟」と公言していた。
次郎長一家の墓がある清水市の梅蔭寺(ばいいんじ)には、鉄舟が次郎長に贈った書などが展示されている。
次郎長が亡くなったのは、明治26(1893)年6月12日。74歳だった。