とくかく日々を生きるために、さまざまな職業を転々としてきた彼が、アメリカの片田舎にガソリンスタンドをオープンしたのは40歳の時。
1930年と言えば、今から69年も昔の話。
ポルシェがようやく自分の自動車設計事務所を持ち、アメリカではT型フォードの生産が終わってから、わずか3年しか経っていない頃のことだから、田舎町のガソリンスタンドでは、お客もそう多くはなかったろう。
ほどなくして彼は、スタンドの脇にあった物置を改造して、テーブルひとつ、座席6つの小さなドライブインを作った。
早くに父を亡くし、工場で働く母に代わって料理を担当していた彼は、その腕と、スタンドの裏手で飼っていた鶏を使おうと考えたのである。
彼が作る料理の評判は上々で、やがて小さなドライブインは147席もある大きなレストランへと成長した。
だが、その後、近くにハイウェイが走るようになったおかげで、旧道に面していた彼の店は、客足がパッタリと途絶え、とうとう閉店に追い込まれてしまう。
彼に残ったのは愛用の調理器具と古い車だけ。
そこで彼は、その全財産を持って方々のレストランをまわり、彼が独自に編み出した調理法を伝授して、ロイヤリティを結ぶという新しいビジネスの道を歩み出すことになった。
これが世界初のフランチャイズ制度の始まり。
65歳で人生の再スタートを切った彼の名は、カーネル・サンダース。
現在、ケンタッキー・フライド・チキンの店舗は、世界69カ国9,000店あまりにおよぶ。
今や日本国内だけでも930体以上のカーネル・サンダース像を見ることができるが、実はこのお馴染みの立像の発祥は日本。
カーネル・サンダース自身、来日の際に初対面したもので、現在は欧米の一部でも使われるようになったようだが、すべて日本製である。
1980年。90歳でこの世を去ったカーネル・サンダースは、こう言った。
「人生は自分で作るもの。"遅い"と言う事はない」
大器晩成を信じて頑張る気持ちは大切だが、決して怠けてはいけない。
カーネル・サンダースと同じ40歳の時に、ホンダの前身となる本田技術研究所を設立した本田宗一郎が、実際に自動車の修理をはじめたのは16歳の頃。
カーネル・サンダースが、はじめてライ麦パンをひとりで焼き上げて大人をうならせたのは、わずか6歳の時である。