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男女間に友情は成立するか?

19981217-19981219


男女間に友情は成立するのか?・・・こんな話題が持ち上がったのは、'98年12月17日(木)00時42分、TUGさんからの書き込みからでした。

その日のdigitakeエピソードは、No.096:男と女の不思議な関係

男女間の友情・・・
それは私の中にいつもある問題。

今期のドラマ「殴る女」(視聴率はめちゃめちゃだったが・・・)、結構好きだったんですけど・・・「自分の居場所」というものを求めてやまない男女が、ボクサーとトレーナーと言う関係を通じてそこがお互いの居場所だと実感するまで・・・というお話だったんですが、文句がひとつ(まあ、ほんとは他にもいっぱいあるんですけどね、文句(^^;;)。そうゆう命題だったらふたりを「男女として」くっつけなくてもいいじゃないか!ドラマ的にその方がウケると思ったのかなぁ?「お互いを信頼しあっているボクサーとトレーナー」ってだけで、十分だと思うんだけど。この関係がより親密になると恋愛になってしまうわけなのかな?(じゃあおやっさんとジョーはホモだとでも言うのか!って感じです)それってなんか哀しい。

恋愛と友情のベクトルは別方向に向いていると思うんです!
それに、私の中で一番上等な愛(この言い方も変だけど)は「友情」なんだけどなぁ・・・。私の考えって、間違っているのでしょうか?

〜by TUGさん


digitakeの反応は以下の通り。

友情って、友達同士の愛情ってコトですよね。
愛情のカタチっていうのもいろいろありますが、親子の愛情とかね。

でも親子の愛情ってヤツは必然で、本人が相手を選べない。
自分で相手を選ぶっていうところから始まる友達同士の愛情っていう方が、どっちかっていうと責任ある関係なような気もします。

男女間の友情と恋愛の関係を男の立場から正直に言えば、相手がイイ女なら恋愛までいきたいし、そうじゃなければ友情のままでいい・・・ということでしょう。

イイ女の基準は人それぞれだけど、もちろん容姿の好みも含めての話。

友情より恋愛の方が上だとは一概に言えないけれど、相手のことが好きで好きでたまらなくなったら、相手のすべてを知りたくなるわけだし・・・、肉体的にもね。

やっぱり男女間において、友情と恋愛を分けるのは"本能"が働くかどうかじゃないかな。

と、なると理性と本能の問題になるわけで、人間として一番上等なつき合いは理性に基づいたものかもしれないけれど、ひと度、人間も動物だと思えば本能に従うのも、また自然。

ちょっと汚い話だけど「前に食事をしたのは何時だから、あと1時間はもつはずだ」といくら自分に言い聞かせても1分後にウンコしたくなっちゃう時は、あるんだな、コレが。

〜by digitake


しかし、なおもTUGさんの悩みは続く・・・

やっぱ本能なのかな。

>相手のことが好きで好きでたまらなくなったら、相手のすべてを知りたくなるわけだし・・・、肉体的にもね。

・・・確かに、それもあるんですよね。(私もそうだな・・・)
でもやっぱちょっと哀しいな・・・。

〜by TUGさん


う〜ん、このまま哀しいだけじゃ「勇気の出るページ」の名がすたる。

哀しくなんかない・・・と思うな、私は。

本能を持ってるってコトは、生き物として素晴らしい機能だから、決して"哀しい性"じゃないと思うけどな・・・私は。

むしろ、理性や知恵が働いて思い悩むというところが、人間が他の動物と違って優れたところでもあり、また愚かなところでもあると思う。

それって、ちょっと前に「超能力者になろう! 」で書いたコトも同じで、極端言えば考えないとわからなくなってしまってる分、ひょっとしたら人間って馬鹿なのかもしれない。

ちょっと前に「腹八分目が医学的にも実証された」なんてニュースがあったけど、何も医学的に実証されなくたって、最初から正しいとわかっていたこともあるワケで・・・。

数々の発明や発見にしてもそう。最初に「きっと、こうできるはずだ」とか「きっと、こうに違いない」ということが、まずあって、それを他人に理解させるために方程式を解いていくわけで、ヒラメいた本人にとっては、最初から理屈ヌキでわかっていたことに違いない。

エジソンが言った「1%のヒラメキがなければ、99%の努力も無駄になる」って、そういうことでしょ。

キュリー夫妻がラジウムの発見を発表してから、ラジウムの測定に成功するまでには3年。その測定をもとにラジウムの存在証明をしたのは、さらに1年後の話。

他人に証明する必要がない自分の中の感情の問題なら、方程式を解くために使う時間は、無駄な場合もある。
最終的には、最初に自分が本能に近いもので感じたヒラメキをどこまで信じる力を持っているか? と、いうことが大切だと思う。

また、汚い話で恐縮だけど、吉永さゆりはウンコしないって信じていたサユリストもかつては数多くいたみたいだけど、自分だって年中ウンコしてるワケだし。

便器にまたがる度に哀しい思いをしてるのは、痔をわずらった人くらいでしょう。

〜by digitake


ここで、digitakeに助っ人(?)登場!!

哀しくないに一票投じつつmyHP宣伝

人間の中の動物的な部分を、哀しく思いたくない。
相手にpositiveな感情を持って、その相手が異性ならsexに進む事だってあっていいと思う。幸か不幸か私は結婚してからそーゆー関係はありませんけれども。
sexしちゃったから特別で、独占で、結婚で、家庭で、となるからヤヤコシイ。
でもまあ、避妊と感染対策はしましょうね、と。話題がズレました。

自分を信じる、が結構難しいから、その納得を共有したくて文化が生まれる。
コトバ然り、方程式然り、インターネットだって、共有者を増やすツールともいえます。

…というわけで、共有者を増やしたい私はmyHP更新アピールにまいりました。
ホモ・ルーデンスな方々が、ニヤリと笑ってくだされば嬉しいな、という画像遊びを入れましたので、覗いてやってください。
この年末の忙しいときになにやってんだコイツ、という反応もありです。
毎日楽しみに読んでいますけれど、お体はお大事にね>digitakeさん では。

〜by さゆりさん
http://www.interq.or.jp/venus/yume/


助け船へのお礼・・・。

オトナだなぁ。

>自分を信じる、が結構難しいから、その納得を共有したくて文化が生まれる。
コトバ然り、方程式然り、インターネットだって、共有者を増やすツールともいえます。

・・・確かに、そうだと思う。
でも、最期はやっぱり自分なんだ・・・とも思う。これは別に相反したコトじゃなくて、自分を信じるための手段や手助けのために、そういうモノがあるんでしょう。

さゆりさん、オトナだなぁ。HPもオトナだし。

〜by digitake


で、少しは元気を出してくれたかのように見えたTUGさんですが・・・。

そなんですよね!

>自分を信じる、が結構難しいから、その納得を共有したくて文化が生まれる。
コトバ然り、方程式然り、インターネットだって、共有者を増やすツールともいえます。

そうですね!
「みんながそうなら自分もそう」とは当然思わないけれど、「自分の考えを理解してくれる人がいる」というのはすごく力になると思います。でじたけさんとさゆりさんの意見に納得しました(偉そうな言い方・・・)。

なんか、でもやっぱり「哀しい私」もまだいるんだよなぁ(爆);;
異性として惚れるのと人として惚れるのって、ひとりの人に同時にある事はあると思うけれど、それぞれは別モノなんだよな、と思ってるんです。それぞれが変化していく事はあるかもしれないけど。
人としてすごく好きでも異性としては愛せなかったり(愛されたいと思えなかったり)、逆もまた有り。・・・って事も、ありませんか?
ううう、私って・・・。

〜by TUGさん


あれま。何とか元気を出してほしいモノですが・・・。

どうして、そんなに哀しいんだろう?

>人としてすごく好きでも異性としては愛せなかったり(愛されたいと思えなかったり)、逆もまた有り。・・・って事も、ありませんか?

それはあると思いますよ、確かに。
私は食べ物に好き嫌いは、まったくありませんが、ウチのカミさんなんか、生のニンジンは食えても、甘辛く煮たニンジンはダメだったりするし・・・。

それから

>異性として惚れるのと人として惚れるのって、ひとりの人に同時にある事はあると思うけれど、それぞれは別モノなんだよな、と思ってるんです。

・・・っていうことについて言えば、同じ相手でも状況に応じて、人間的に好きだと思ったり、異性として好きだと思ったりするわけだし、ひょっとすると相手は同じコトしていても、その時の自分の気分によって感じ方が違うのかもしれない。
だから、それを分けて考えることが必要なことなのかどうかは、ちょっと疑問。

好き=結婚に結びつけることはないかもしれませんが、さっきのニンジンの話で言えば、生でも煮ても、一応食えるという自信がないと、いっしょに暮らしていけないような気はします。どう調理しようと、その素材そのものが好きなら申し分ありませんが・・・。

ただ、若い時には肉ばっかり好んで食べていても、年をとったら魚の方がいいと思うようになったり、人間の嗜好は変化するものでもありますから、そのヘンは難しい。

でも、だからと言って選んでばかりいて、何も食わなきゃ腹は減るし、健康にも良くない。
栄養価が高いとか、消化にいいものとかを選んでいられる空腹具合の余裕があればいいけれど、それにしても好きなモノを食べたいというのは人情。
あんまりお腹が空き過ぎると、目の前のものを手あたり次第・・・ということになりかねませんが、それは健康に良くないでしょう。胃が痛んで、翌日、後悔することにつながります。

ちょっと話ズレちゃった・・・かな?

〜by digitake


ちょっとズレちゃったかと思いきや、話は核心へ・・・?!

哀しいのは・・・

ある人を私がどれだけ好きでも、相手がこちらを異性として好きになってくれた場合に私が応えられない(異性としてみられない)のはそれほどその人を好きではない、と言う理屈になってしまう事が有る事、なんです。

これはやはりその人を好きではない、という一言でかたづけてしまうしかないのだろうか、という・・・。それがなんだか哀しいな、と・・・思うんです。


追記。

恋人を想うより強い気持ちで想う友情って、ありえないんでしょうか・・・。私はあると思っているけれど、こればかりは私だけが思っていても・・・。相手と共有してこその感情ですから・・・。同性の友人とはその点では(当然)上手くいくんですが、異性の友人とはいつもそれ(惚れたのはれたの)で駄目になっている気がするのです。

〜by TUGさん


確かにムズカシイ問題なんだけどねぇ・・・。

想いは、永遠じゃない・・・と思う。

年の離れた2人の子供が仲良く遊んでいるとする。
2人とも、言葉が話せない時には、なんとなく仲良くやっているんだけど、片方が言葉を覚えて、話しをすることが楽しくなると、今まであんなに仲良く遊んでいたのに「話しができないとつまらない」と思うようになる。
2人とも話せるようになると、新しい遊びもできるようになって、また楽しさを共有できるんだけど。

でも、その内1人は日本語を覚えて、別な1人は英語を話すようになったら、やっぱりコミュニケーシヨンはとりづなくなっちゃうよね。

自分も相手も、つねに変わっていくんだよなぁ。
同じ方向に変われないと、お互いがわからなくなって、つき合いもつまらなくなってしまうモンだと思う。

同じ思い出を持っている・・・ということだけじゃ、長いつき合いはできない。
やっぱり同じ方向に変われないと・・・。

思い出話には限りがあるしね。
だから、私は同窓会が大嫌い。今、自分がやりたいことをいっしょにできる仲間といっしょにいる時が一番楽しい。

〜by digitake


さぁ、どうでしょう?! TUGさん?!

同感です。

想いは変わっていってしまうもの。
だからこそその一瞬一瞬を心に刻みつけていきたい。

私は思い出話も嫌いじゃないけど、それだけじゃ付き合っていけない。同じ思い出を持っていても今の時間・感情を共感していけない人間とは過ごせない。かつては四六時中を共に過ごした友であっても、それだけでは今の時間を一緒には過ごせない。かつての友はかつての友。ずっと続いてゆく関係もあるけれど、ずっと続かない関係の方がもっと多い。ほんのささいな事ですれ違っていったり、歩いていく方向が違ってしまう。それも良い。かつての友がいたように、今ここに友がいる。同じ人間とであろうと違う人間とであろうと、ひとつとして同じ関係は築けない。それが生きていくという事。同じ時間を巡っているわけではないのだから。

でも、すれ違っていった友の事を思い出して眠れない夜も有る。
今の友とすれ違っていく未来を想う夜も有る。
でも・・・それも生きていくという事。
別れがあり、出会いがある、そういう事。

哀しくは、ないんですね。

長くなってしまった上に酔った文ですいません。
さゆりさんやでじたけさんの話を聞いていたらそんなふうに思いました。

〜by TUGさん


ひとまず、少しは元気をとり戻していただいたようでヨカッタです。

後日、目にしたフランスの小説家、サン・テクジュペリの言葉に、こんなのがありました。

「愛とは、互いに見つめ合う事ではなく、共に同じ方向を見つめる事である」


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