20080817
でじたけ流 教育論

第420回

子供をぶっ飛ばせるか?


銀行での待ち時間、
長椅子のわきにあった「週刊新潮」を手にとった。

無差別殺人を行う
若者の凶悪犯罪について、
作家の佐藤愛子さんがコラムを寄せていた。

戦後の子供たちは
人格尊重という言葉で甘やかされすぎ。

人として半人前の子供を
いちいち尊重していたら、教育なんかできない。

世の中は理不尽なのが当たり前で、
へたな尊重主義が
世の中=理不尽への抵抗力をなくし、
社会に出たとん破綻を来してしまう。

・・・そんな主旨の言葉。
自分とまったく同意見で嬉しくなった。

私は戦後しか知らないけど、ね。
そこそこ理不尽な目にも遭ってるから
・・・つくづく、そう思う。

考えてみたら・・・戦争っていうのは、
その時代に生きた人たちのほとんどがみな、
同じように理不尽な思いをしたということなんだな。

むろん、戦争が正しいとは思わないけれど・・・
戦争から学ぶことはたくさんあるわけで、
・・・否定すべきことだけではないだろう。

再三同じようなことは書いてるけど・・・

半人前の意見を認めるというのは、
リングに立ったこともないボクサーが
「負けたことはない」と胸を張っているのを
・・・認めてしまうのと同じことだろう。

リングの外では、
それで何とか体裁は整っても・・・
社会というリングに立ったとたんにブチのめされて、
倒される習慣がないばっかりに現実を受け入れられず、
反則によってでも自分だけの正義を通そうとする。

そうならないためには・・・
リングの外でもしっかりブッ倒しておいてやらないとな。

そこで負けてしまう親は
・・・何より親が半人前なんじゃないかと思う。

たとえ大人になったって完全な人間などいやしない。

ただ、少なくとも・・・
自分の子供を導くためには
・・・子供と同じじゃダメだろう。

正しいから勝つとは限らないように・・・
正しいから殴るんじゃない・・・親だから殴るんだ。

たとえ理不尽であっても、
理不尽さを教え、
抵抗力をつけるために・・・。

ただし・・・
それができるのは、自分も痛みを知る親だけ。

子供はサンドバックじゃないし、
決して腕力の問題じゃなく、
親に手を上げることができないという
当たり前の躾があっての上での話、だ。



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