20001203
でじたけ流 教育論第26回 つめいの

ホンダに続いて、ソニーでも二足歩行ロボットが発表された。
先日、その展示会に家族総出で行って来た。

土日は大変な混雑が予想されていたので・・・行ったのは金曜の夜。
おかげで、それほどの混雑もなかったけれど、あいにくホンダのロボットが歩くところは見られなかった。

ソニーの方は、ちょうどデモが始まる直前で・・・
何とか見るコトはできたけど、やっぱり大変な人の山。
幸い子供たちだけはステージの前に行かせてもらえたんで、よく見えたと思う。

身長50cmほどのヒト型ロボット数体が・・・みごとにパラパラを踊っていた。
片足で立てるなんて・・・1歳になるうちの次男より上だ。

アトム世代の私にとってロボットは、まさに夢みる世界。
ああ、ついにあの21世紀が来るんだな・・・と感慨を深くした。

デモが終わって、ステージの前から戻って来た子供たちに向かって・・・
「どうだった? スゴかったろ!」と興奮する父親。
しかし、子供たちは案外冷静で「まあね」って感じ。

小学校1年と幼稚園の娘に意味がわからなかったハズはない。
でも考えてみると・・・確かに私の世代が感じるほどの「感動」はないかも知れない。

だって・・・彼らにとっては、すでにそれが「当たり前」に近い状態だから。

初期型アイボのユーザー・カード 実を言うと、私のうちには、あの犬型ロボット・アイボの初期型がいる。
アイボと遊ぶことが日常的になっている彼らにとって・・・
いかに二足歩行だろうが、それほど新鮮なモノではなく日常の延長線上に見えたのだろう。

私たちの世代にとってテレビは、物心ついた時からある日常的なモノだが・・・
私たちの親の世代から見れば、きっと「感動モノ」だったに違いない。

子供に物をあたえ過ぎると「感動」がなくなる・・・そう考える人も多いと思う。
確かに一理あるとは思うけれど・・・私に言わせれば「早いか遅いか」程度の問題。
前にも書いたけど・・・
むしろ「物を手にしたくらいで感動なんかしてほしくない」というのが正直なところ。

本物の「感動」は、あくまでもその本人が「何かを成し遂げた」ところじゃないと得られないモノ・・・だと私は思っている。

家にいても、しょっちゅう商売の話や自作ドラマの話を楽しそうにしている私につられてか・・・
最近は子供たちも、よく自分のアイデアを語るようになった。

そこで、ようやく平仮名とカタカナが書けるようになった長男に1冊のノートを買ってやった。
表紙にはロボットがパラパラを踊っているような長男の字で『はつめいノート』と書いてある。
せったかく自分で思いついたコトを書き留めておくためのノートだ。

『はつめいノート』の最初には・・・
スキー場にペンギンと白くまの動物園を作るという息子のアイデアが書いてある。
だいぶ苦労して書いたみたいだ。

考えたコトを何でもいいからカタチにする習慣は大切だと思う。

話していると「これはいい」と思えるアイデアも・・・
実際に書き出してみて具体的に整理したり、客観的に見てみると・・・
案外たいしたコトなかったり、矛盾だらけだったりするコトがよくある。
私自身、毎日ホームページを書いていてブチ当たるコトだ。

さらに二次元的にだけではなく、三次元でモノを考えるコトも・・・
これからはさらに必要になってくるだろう。

そうだ!
この冬休みには、長男といっしょに、動物園つきスキー場のジオラマ模型でも作ってみようかな?!

年末の大掃除時だってのに、またそんなコトししていると・・・
「置く場所がない」ってカミさんに言われそうだけど、ね。

でじたけ流 教育論

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