20061210
でじたけ流 教育論

第332回

いじめの構造


あいかわらずニュースを騒がせている
・・・いじめ問題。

いじめた側を今度は国がいじめる
・・・なんて感じの罰則も聞かれるけど、
そういう間に合わせで、
世間に対する見た目のフォローだけでなく、
教育というからには、
もっと根本的なところを
見直す必要があるんじゃないのかなぁ。

いじめられた側の立場にたって
・・・なんてことだけ言ってもはじまらない。

そもそも先生や役人が、
自分の立場のことばっかり言ってるんだから、ね。

そもそも「いじめ」とは何か?
「いじめ」は何故起きるのか?

・・・そういうことについて、
もっと真剣に考えてもいいんじゃないか。

普通とちょっと違うところ・・・
例えば身体的な特徴や
家庭の事情なんかがあって、
本人のせいでないにしろ、
そこを残酷に揶揄するのが「いじめ」だろう。

この仮の定義で言えば・・・
本人が怠けていて、うまくいかない時、
そこをつついても「いじめ」にはならない。

それでつつかれても、
つつかかれた本人が、
そのことは一番欲知っているはずだし、ね。

本人は頑張っているのに、うまくいかない。
あるいは
本人の努力ではどうしようもない部分をつつく。
・・・これはキツイ。やっぱり「いじめ」だ。

自他共に認める
いじめっ子であった私から言わせれば、
いじめる側も
いじめられる側も
・・・実は紙一重だと常々感じてきた。

いずれも
普通と少し違う
特徴的な部分を持っていることは同じで、
そのいわばコンプレックスに対し、
自分を防衛する本能が
特徴的な部分がない者に比べて、
かなり強い結果、行動に出るのだと思う。

大人になってから振り返ると、
そのコンプレックスだと感じていた部分は、
かえって個性として活かせるものだったり
・・・するんだけど、ね。

例えば男の子以上に
スラッと背の高い女の子は
ノッポなんて言われていじめられていたけど、
大人になって、モデルになんかなって
みんなから憧れの的になったり、と。

では・・・
どうして実は似たような境遇の者が、
いじめる側といじめられる側に
・・・分かれてしまうのだろうか?

私の経験上から言えば・・・
防御本能を感じとり、次の対応にうつる
・・・スピードの問題のように思う。

つまり・・・
のんびりしている者はいじめられ、
機敏な奴はいじめる方になる。

いじめる、という言葉と
いじめられる、という言葉だけ見ても
そのことはハッキリしている。

先に「いじめる」者がいなければ
「いじめられる」者も存在しないわけだから、ね。

かつて(ひょっとしたら今も)
私がいじめていた相手を思い起こすと・・・
たいていマイペースなんて言葉で
自分をごまかしているような連中ばかりだった。

私なら絶対先にこうするのに、
あいつはいつまでたってもやらない。
そういう者を見ていると苛立ったりした。

ことさらその相手が目に入るのは、
どこかで自分と似た部分を感じていたに違いない。

むろん、人それぞれのやり方というものはある。

ただし・・・
これが自分のやり方だ
あるいは、
これが自分のペースだ
・・・なんてことを言えるのは、
何かをずっとやり続けてきた
そうとうのベテランでなければ本来無理な話。

役にも立たない個性を闇雲に尊重する
軟弱な教育が・・・
実は数多くのいじめられ人間を育てている気がする。

ダイヤの原石をいくら柔らかな布で磨いても
高価なブリリアンカットにはならない。
・・・ただの石ころのままだ。

こんな風に書くと・・・何だか
スパルタ教育者のように聞こえるかもしれないが、
スパルタ教育が何たるかもしらなければ、
子供たちとは
節度をもった友達同士でいたいと思っている。

ようするに、こうしたことは
いくら言って聞かせても無駄が多いばかりで、
徹底的にスポーツをやらせるなどの
体得が教育には必要なんだと思う。

机の上で学べることなど
・・・本当に少ないものだ。

社会に出たら、もっともっと
生活を脅かすほどのいじめもあるというのに、
その回避策さえ、
机の上では学べないのだから・・・。


でじたけ流 教育論