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Fictional Talk No.008

架空対談時代とは

U「How do you do. ・・・そうね、日本語で話しましょう。私が初めてアメリカへ渡ったのは、7歳の頃。父の強い要望で・・・。父は福沢諭吉先生といっしょにアメリカへ行ったこともある外国奉行の通訳でした。6歳の私は4人の仲間、そして伊藤博文先生といっしょに船に乗ったけれど、もちろん私は最年少。7歳の誕生日を迎えたのは、この船の中でした。仲間のうち、2人は体調を崩して、すぐに帰国してしまったけれど、私は残る2人と最後まで留学生活をやり遂げたわ」

S「すべてのインテリは扇風機のプロペラのようだと思えるわけです。まわっているけど前進しない」

U「みんながみんな、そうじゃないわ。伊藤先生は初代内閣総理大臣として実際に活躍された方。・・・18歳で帰国した私は、日本の習慣になかなか慣れることができなかったどころか日本語もマトモに話せなくなっていたけれど、伊藤先生には住み込みでお仕事をいただいたり、ずいぶんと励まされたものよ。・・・でも、その後、就職した華族女子学校では失望したわ。女性をただのお人形のように扱っているたげ。生徒たちも生徒たちで社交界にデビューすることしか考えていないんだもの。ドレスを着てワルツを踊れさえすれば西洋に追いつけるなんて・・・」

S「やはり大多数のインテリは扇風機なんです。それに、鳥は空にかくれようとして、いくら羽ばたいても、空にみずからを消すことはできないわけです」

U「でも私は、もう一度羽ばたくことにしたの。アメリカにね。晩年、農学者になった父の影響もあって生物の勉強に励んだわ。科学者として大学に残るようにも勧められたけれど、日本の女性のための、よりよい学校を作りたくて戻ったの。もちろん、学校を作るためには大勢の協力者や多くのお金が必要なことは、わかっていました。だけど、とにかく自分の理想に向けてはじめてみようと・・・」

S「明日何が起こるかわかってしまったら、明日まで生きる楽しみがなくなってしまうことでしょう」

U「確かに、そうね。私が学校をはじめる直前にお会いしたヘレン・ケラーさんや、ナイチンゲールさんにも、生きる希望をあたえられました」

S「人類が最後にかかる、一番重い病気は"希望"いう病気じゃないか・・・とも思えるわけです。ただ、ボクがあなたの病気だと言い切ることができれば、それはそれで、ひとつの幸せがカタチづくられると言えなくもない」

U「あなたのお話はおもしろいけれど、素直な人のか、小難しい人なのか、わかりませんわね。そこが魅力なのかしら? あなたの言葉には確かに力を感じますけど・・・Sorry、 見た目は決して強そうでもないし・・・」

S「しかし、ターザンみたいな体が今どき何の役に立つというのか、ボクにはわからない。もりあがる筋肉、夏の光にかがやくオリーブの肌、100貫の石を持ち上げる怪力は、労働者になるのか、それとも自衛隊に入るのか・・・、結局、サーカスの見世物になるしかない時代じゃないかと・・・」

U「・・・時代。私も時代という波に翻弄された、ひとりでしょう。幸い私の作った学校は、今からちょうど100年前の日本のneedsにmatchして、数多くの新しい日本の女性を世に送り出すことができました」

S「日本で初めての帰国子女のあなた、梅子さんが作られた津田塾大学も100年になりますか」

U「ありがとう。ところで、あなたも与えられた時代の中で、いろんなことをなされた方ですが、最終的なご職業は何ですの?」

S「ボクの職業は、寺山修司」


参考文献:「学習まんが人物館 津田梅子」津田塾大学/津田梅子資料館=監修 小学館=館
     「ポケットに名言を」寺山修司=著 角川文庫=刊

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