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Episode No.055

若いということは、ただそけだけで素晴らしい。

若さゆえの未熟さも、好奇心と可能性に満ちた行動を考えれば、まだ許せる。
少なくとも歴史にブレーキをかけ、時に後退させようとする"老害"に比べれば、はるかに罪は軽い。

明治維新を成しえた立役者たちが、いずれも20代、30代の若さであったことは周知の通りだが、最後の将軍、徳川慶喜も大政奉還に踏み切ったのは、ちょうど30歳の時だった。

今日、紹介するある島の領主も、わずか16歳という若さだ。

彼が領主となっている、その島に難破船が漂着した。

船の乗組員は100名程度。顔つきが日本人と変わらなかったために、当初、島の人々は彼らに日本語で話しかけていた。しかし、一向に話は通じない。彼らは中国人だったのだ。

浜辺の砂に漢文を書き、筆談のカタチで、ようやく意志の疎通をはかることができた。
乗組員の中に、それまで見たこともない2人の白人が乗船していたことから、彼らは領主にお目通りすることになる。

2人の白人は"西南蛮"の出身。当時は、まだヨーロッパという表現がなかったので、現在の東南アジア周辺を指す南蛮より西のインドからヨーロッパにかけての広い範囲は"西南蛮"と呼ばれていた。

珍しい外国人と会った16歳の若い領主は、彼らが大事そうに抱えていた棒状の道具に注目した。

これこそ、戦国時代の終演に大きな役割をはたす、鉄砲であった。

少年領主、種子島時堯(ときたか)は、この鉄砲を買いたいと申し出て、2挺を手中に収める。この後、内1挺を城下の鍛冶屋に分解させ、同じものを複製するように依頼。それが、やがて九州を経由して本州に渡り、天下をゆるがすことになる。

と、いうわけで鉄砲伝来の時に種子島に流れ着いたのはポルトガル船ではなく、中国船。たまたま乗り合わせたポルドガル人が鉄砲を持っていたというのが正確な話。

種子島では砂鉄が採れることから、昔から多くの腕のいい鍛冶がいた。

難破船が流れ着いたのが、種子島ではなく、隣の屋久島だったら・・・。
鉄砲を手にしたのが好奇心にあふれた若い領主でなかったら・・・。

歴史はもう少し遅く進んでいたかもしれない。


参考文献:「通勤電車で読む日本史の本」小和田哲男=著 三笠書房=刊 ほか

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