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Episode No.051

ペリーが日本へ開国を迫りに行くという話を彼は上海で聞いた。

彼の生まれは貧しかったが、ニューヨークで乾物の商店を開いたのを手始めに独学で商人の道を歩み、サンフランシスコで皮革の貿易商人となるや、中国、インドシナ、タイ、インド、香港、エジブトで活躍した。

早くから日本に関心を寄せていた彼は、ペリーの話を耳にした直後、時のアメリカ大統領ピアスに、自分を日本総領事にしてもらうよう直訴した。

「私は独身で身軽です。それゆえ、どんな困難にも打ち勝てるはずです」

こうしてタウンゼント・ハリスが、初代駐日アメリカ総領事として伊豆・下田に着任したのは安政3年(1856)のこと。独身とは言っても、その時ハリスは52歳。当時、日本で通じる外国語といえばオランダ語だったので、オランダ語のできる書記としてヒュースケンを連れだっての来日だった。

ハリスの最大の任務は"日米通商条約"の締結だ。

巨大な黒船と軍人ペリーに圧倒されて開国まではのんだ幕府も、ハリスの要求に対しては、当初のらりくらりとかわしていた。幕府側は誰ひとりとして、このアメリカの商人と真剣に議論しようとしなかったのだ。

業を煮やしたハリスは、アメリカの兵力を動かす覚悟があることを幕府に通達。もちろん、ハリスは一隻の軍艦も持っていないどころか、兵を動かす権限もなかった。

このハッタリは幕府に真剣に受け止められ、井伊直弼の決断で勅許を受けないまま"日米通商条約"14箇条、貿易章程7則に調印することになる。

アメリカは、ハリスの功績を認め、彼を米国全権公使に昇格させた。下田の玉泉寺に置かれた領事館は閉じられ、公使館はハリスの要求通り江戸(元麻布にある善福寺)に移された。

しかし、ハリスの努力によって恩恵を受けたのは何もアメリカだけではない。

商人から転じて外交官となった彼は、日本の国際化のために常に正論を通した。それゆえ、日本に対してアメリカとだけでなく、いかなる国とも貿易してよいと認めたのだ。

この時、ハリスがアメリカの利益を最優先に交渉を進めていたら、日本はアメリカの植民地になっていたかもしれないし、もっと別な戦争に巻き込まれていたかもしれない。


参考文献:「徳川慶喜をめぐる幕末百人オールキャスト」世界文化社=刊

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