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Episode No.035

1967年4月9日、日曜日。
その晩、あるテレビ番組が終わると、日本中の子供たちはいっせいに夜空を見上げた。

それより、ほぼ半世紀前。1916年春のこと。
アメリカ人、アート・スミスは日本国中をまわって、自慢の曲芸飛行の腕を披露していた。
日本人で初めて自動車殿堂入りをはたした本田宗一郎も、このアート・スミスの曲芸飛行に魅せられて、エンジニアをめざした一人だが、福島県須賀川市生まれの彼も、アート・スミスの記事を見て、エンジニアをめざした。

家族の反対を押し切って、羽田にあった日本飛行学校に入学したものの、一機しかなかった練習機が墜落。操縦していた教官は、その事故で死亡してしまい、学校は閉鎖されてしまった。

その後、東京工科大学(現・東京電機大学)に入学した彼は、学費を稼ぐために、おもちゃ工場で働いた。

ある日、おもちゃ会社の同僚たちと宴会をしていると、隣にいた宴会の組と些細なことで喧嘩になってしまった。彼は乱闘には加わらず、それをながめていたが、同じようにそれをながめる隣の組の人間と話が合った。

これをきっかけに、彼はおもちゃ工場をやめて喧嘩相手だった隣の組の会社に入ることになる。
会社の名前は"天然色活動写真株式会社"。彼は、ここで映画のイロハを学ぶ。

戦中、戦後の混乱をぬけ、与えられたフィールドをつねに生かしながら、次々と独自の技法を構築していった彼が、東京オリンピックの開催をきっかけに爆発的に普及したテレビの世界へも手を広げたのは、1966年のこと。

この頃になると、彼は若い人材を育成するために第一線を離れ、監修としての立場を貫いていたが、新時代のヒーローを模索してデザインに苦しむ若手に、こんなアドバイスもした。

「シンプルな・・・、仏さまみたいな顔がいいんじゃないかな」

こうして1966年、「ウルトラマン」の放映が開始された。
大人気を博した「ウルトラマン」の最高視聴率は、50%近くにもなったという。

1967年4月9日、日曜日。
その晩、「ウルトラマン」の最終回が終わると、日本中の子供たちはいっせいに夜空を見上げて叫んだ。

「ウルトラマーン! ありがとー!!」

彼、円谷英二は、この晩の話を聞いて大きくうなづいた。


参考文献:「まんが人物館・円谷英二」小学館=刊
     「円谷英二の映像世界」実業之日本社=刊

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