Episode No.029
それは彼が16歳になった時のこと。
音楽家の一族の中で、大成できずに酒におぼれた父に幼い頃からスパルタ教育を受けた彼は、ついに憧れの人の前で、その腕前を披露することになった。
彼は、しばらく目の前の鍵盤を見つめて、ひと呼吸すると、おもむろに練習を重ねた曲を奏で始めた。
憧れの人は、最後までジッと聞き入っていたが、演奏が終わると
「なかなか、良く弾けるね」と、言葉少なに語っただけだった。
彼は直感的に、弾き慣れた曲を無難に弾きこなしただけでは、この相手が満足してくれないことを悟った。
準備してきたものを披露しただけでは、その一曲限りのこと。
自分の本当の実力を長年憧れてきたこの人に評価してもらいたいと強く願っていた彼は、思いきって言った。
「何か主題をください」
席をはずしかけていた憧れの人は、おもむろに振り返ると
「そうか、即興曲をやろうと言うんだね・・・おもしろい。では・・・」
そう言って、ごく短いフレーズを弾いてくれた。
憧れの人の主題を受けて、彼は持てるイメージのすべてをそそぎ込んで鍵盤を叩いた。
演奏が終わると、憧れの人・モーツァルトは即座に立ち上がり、隣室のドアを開けて叫んだ。
「諸君! あの少年を見たまえ。彼は今にきっと世界を驚かす大音楽家になる! ルードビッヒ=バン=ベートーベン。この名前を覚えておきたまえ」 |