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Episode No.207(990426):でじたけの幸福論

ご愛読者のTクンから、こんなメールをもらった。

「"人は不幸を知らないと本当の幸せを手にいれることはできない"というような事をいいます。僕はこの言葉が、何か納得いかないのです」

ひとり暮らしをしているTクンは、親元から離れて初めて実家にいた時のありがたさを痛感したというが、不幸を体験しなければ、幸せを感じることができないというのは何かおかしいと思う。このことについて、どう思うか?・・・と、いうのである。

ちょうど最近になって感じてきたことがあったので、このメールへの返事は、この場で書かせてもらうことにした。

三島由紀夫が自決一週間前の対談で、こんなことを語っている。
「俺はおまえより死体をたくさん見ているから、残酷さについてよく知っているとは言えないし、俺はお前より貧乏だったから偉い・・・ということは言えない」

幸福についても同じことで「誰それよりも幸福」だとか「いつの頃よりも今の方が不幸」だという気持ちが人間には生まれがちだが、本来、幸福とは相対的な見地から語るべきものではない・・・と思う。

幸福感とは個人の絶対的な価値であるはず。
だから、たとえ他人から見れば、人より劣っているものがあろうと、身体的なハンデがあろうと幸福をつかむことはできる。

まして、本当の幸福は他人から与えられるものではない。

では、幸福感とは、どんな時に得られるものなのか?
簡単に言えば「思い通りに、やりたいことができた」時。
もう少し理屈っぽく言うなら「努力しただけの成果を得られること」が幸福だろう。

努力したら、それなりの成果が得られて当たり前・・・と思うかもしれないが、現実はそう甘くない。

オリンピックに向けて猛練習を積んで、自己ベストを世界的なレベルまで高めることができても、戦争問題でオリンピックへの参加そのものが中止になってしまうことがある。
もっと身近な例で言えば、次の日曜日にハイキングへ行こうと準備万端整えていても雨が降ることはある。
他人を相手にすることであれば、自分の思う通りにいかない方が、むしろ当たり前だ。

思った通りの成果を得るためには周到な準備も必要なら、最後には運を味方につける必要もある。
こう考えてみると、やはり幸福を手にするためには、やはり努力が必要であることもうなづける。

さて、Tクンをはじめ、皆さんは、どう思いますか?


参考資料:「三島由紀夫/最後の言葉」新潮カセット文庫

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