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Episode No.193(990409):天才に合う学校はない

もらわれていった先は、横浜の貿易商。

正式な養子縁組に至ったのは、彼が4歳頃の話だが、彼が五男五女の五男として誕生した時、実の父親は政治犯として服役中。
残された家族は、古くから交友のあった、その貿易商の家に身を寄せていたために、彼は生まれてからずっとその家で暮らしていた。

後に"学者宰相"と言われた彼の学歴は「長い」。

横浜の小学校に入学したが、途中で藤沢郊外の全寮制の塾に編入。
東京で中学に入るが、すぐに高等商業学校に移ったが、またすぐに尋常中学校に変わった。
その後、これまで華族の子弟だけを教育することを目的に運営されていた学習院が、正式に官立となり広く一般に開放されたのをうけて、彼は外交官育成のために設けられた学習院大学科(現、学習院大学)に進む。
しかし、大学科を創立した院長、近衛篤麿が死去したために、指導者を失った学習院大学科は一旦、廃止されてしまう。
仕方なく彼は、東京帝国大学法科に移ったが、卒業した時、彼は28歳になっていた。

彼が、まるでジプシーのように官学と私学の学校を行ったり来たりしたのは、明治の初め、教育制度がまだ充分に整備されていなかったことも原因として挙げられるし、当時のお金で50万円、現在の価値に直すと数百億円ともいわれる養父の遺産があったために生活には困らなかったことも挙げられる。

だが、一番の原因は痛烈な個性を持った彼に合う学校が、なかなか見つからなかった・・・ということだろう。

人は生まれながらにして、それぞれにある才能を持っている。
本来、教育とは、そうした個性や才能を伸ばすことを目的として、先人が切り開いた技術を付加してやることが使命だろうと思うが、とくに戦後の合理主義に根ざした教育は、国民全体の教育水準を上げることはできても逆に優れたひとつの才能をつぶすことにつながっていった。

極端を言えば、教育制度など完備されていない時代の方が、志のある者だけが学んだという点で優れた人材を創り出していたとこだろう。
あるいは、なまじ学校などに行ってカタにはめられない方が魅力的な人間は育つのかもしれない。

戦後の首相の人気投票では、1位は日中国交回復を果たした高等小学校出の田中角栄。
2位はジプシーのように学校を渡り歩いた・・・吉田 茂である。


参考資料:「日本史有名人その少年時代」歴史読本スペシャル'88-5特別増刊 新人物往来社=刊

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