たとえギリシャ彫刻のごとき肉体美を誇る男でも、その自分の姿を鏡に映し、延々と悦に入っているようだと・・・とても心身共に健康とは思えない。
幸福を支える最大のものは、健康に違いない。
身体の健康については言うまでもないが、心の健康と幸福の関係は一概に、そうとも言えない面がある。
『智恵子抄』が出版されたのは、今から58年前、1941年の夏。
作者は彫刻家でもあり、詩人でもある高村光太郎。
「いやなんです あなたのいってしまうのが─」
長沼智恵子の縁談を知った、光太郎が発表した『N─女史に』という詩は、『人に』というタイトルに改題されて『智恵子抄』に載っている。
当時、日本は太平洋戦争の最中。
戦場へ向かう青年たちや、それを見送る少女たちに、光太郎と智恵子のひたむきな愛を綴ったこの詩集は、そんな時代の青春を生きる若者たちのバイブルとして読まれた。
『智恵子抄』が世に出た時、東京に空はないと言った智恵子は、もうこの世の人ではなかった。
上野の西郷隆盛像や皇居の楠木正成像も手がけた彫刻家、高村光雲の長男として生まれた光太郎は、東京美術学校(現、東京芸術大)を出た後、ニューヨークに1年、ロンドンに1年、パリに9ヶ月もの間、留学生活をし、帰国後も就職せずにいられるほど、もともと経済的には困っていなかった。
一方、智恵子も女子の進学が珍しかった明治時代に日本女子大へ進んでいたくらい、経済的には恵まれて育った。
画家をめざす智恵子が、光太郎の詩に魅せられて彼を訪ねたのは、光太郎28歳、智恵子25歳の時。
いい話し相手になった2人は、『N─女史に』をきっかけに急接近。将来を誓う仲となった。
親族からは決して望まれた結婚ではなかった2人は、極度の経済危機状態に陥ったが、若さと愛でのりきっていった。
しかし、智恵子の実家が破産し、2人も中年にさしかかった頃から、その生活にも無理がたたってきた。
普通なら、こういう状況になるとケンカが絶えなくなったり、酒におぼれるようになったり・・・というのが、お決まりのパターンだが、光太郎と智恵子の間にいざかいはなかった。
ただ、そのしわ寄せは、智恵子の心を少しずつむしばんでいった。
46歳で自殺未遂を起こした智恵子は、52歳で亡くなるまで正気をとり戻すことはなかった。
智恵子を失った光太郎は、岩手の山奥で自給自足の暮らしをし、さながら世捨て人となる。
69から70歳にかけて、当時、青森県知事をしていた太宰治の兄、津島文治の依頼で、十和田湖のほとりに裸婦像を作ったのが最期の仕事となる。
今日は1956年に73歳で亡くなった高村光太郎を偲ぶ、光太郎忌だ。
芸術家にとって純真であることは、このうえない幸福かもしれない。
だけど、結果的に生きた智恵子を守りきることのできなかった光太郎のようになりたいとは思わないな・・・私は。あなたは、どうです?