敵は本能寺にあり・・・と、主君、織田信長を討った男、明智光秀。
下克上の世の中とはいえ、あまり信長が馬鹿にし過ぎたために、今で言えば「キレた」といった感じだったろう。
広沢虎造の浪花節、次郎長伝の中にもこんな話がある。
お前は弱いと馬鹿にされていた三下奴(さんしたやっこ)が「そんなに言うなら、俺も一旗あげてやろう」と、次郎長の意に反して思いもかけずある親分の首をとる。
それが騒動の始まりで、有名な荒神山の大ゲンカにまで発展してしまう。
しかし所詮、実力のない者は勢いで行動を起こしたところで後が続かない。
明智光秀が天下をとっていたのは、わずか12日間のことだった。
さて、その後、野に下った明智家は、いったいどうなったのか・・・というのが今日の本題。
光秀一族の明智左馬之助は、近江から土佐に落ちた。
長岡群植田郷才谷村(現在の南国市)に住んだ左馬之助は、その後、才谷と名乗り、やがては村の有力農民となって、高知城下に出たとされている。
時代は光秀の死から300年ほどたった高知城下に、才谷屋という羽振りのいい商家があった。
才谷左馬之助の子孫という説もある才谷守之が、寛文6年(1666)に質屋を開いたのを皮切りに、酒屋も兼業して成功し、りっぱな商家になったのが、この才谷家だ。
才谷守之の孫、直海(なおみ)は、商人からさらに地位を向上させるべく、郷士の株を買い、下級ながら武士となる。
武士になった直海は才谷家から分家。以後、直海一族は郷士として生きることになった。
土佐の郷士と聞いて「まさか?!」と思われる人もいるかもしれない。
その「まさか?!」が歴史のおもしろいところ。
直海の孫は、後に変名を才谷梅太郎と名乗った男。
本名、坂本龍馬。