THE THEATER OF DIGITAKE


第14話 ケジメなき年末

■宮田浩一郎の青春

北海道出身の宮田浩一郎が地元の薬科大学の受験に失敗して、東京近郊の数ある理科系大学のひとつにかろうじて合格、上京したのはもう30年くらい前のことになる。

地元の大学を第一志望としたのは、母親の強い希望。今は亡き父の口癖は「男はもっと広いところに出にゃあダメだ」で、第一志望こそ母親の要望を受け入れたが、第二志望以下はすべて遠隔地の大学ばかり受験させた。

宮田家が漁業を営んでいたのは祖父の代までで、浩一郎の父は小さな村の郵便局員として一生を終えた。「どうせ継ぐものなど何もないのだから長男だからと言って一生ここにいることはない」・・・そんな父の言葉は、都会に憧れていた浩一郎少年にとっては大変都合のいいものだった。

そういう点では、ひょっとすると第一志望の受験ではかなり手をぬいていたかも知れない。ただし、どこかに受からなければ地元で就職口を探さなければならなかった浩一郎にとって、それは人生初の大きな賭でもあった。

時代は長く続いた佐藤内閣のおわり頃。大阪で開かれた万博には、とても行ける経済状態ではなかったが、毎日のように学寮のテレビではその様子を見ていた。

男くさい学寮生活から今の会社に就職してからも浮いた話ひとつなかったが、たまたま大学のゼミでOBの集まりがあって、そこで知り合ったのが当時はまだ在校中だった妻の裕美子だ。
裕美子の出身は新潟。今太閤と騒がれた田中角栄がオモテ舞台に出てこなかったら、共通の話題を探すのにずい分と苦労して、結婚なんてことにはならなかったかも知れない。

ただ、雪深い地方の出身であるというだけで価値観には似たものがある。やはり同じような環境の中で苦労したためだろう。

そういえば・・・三村しよりは青森の出身だ。


Next■