でじたけ流 教育論「背中で教えられる親になりたい」
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20130421

でじたけ流 教育論663

でじたけ流教育論 digitake.com


親が苦手な食い物は、
たいてい子供も苦手だよな。
何せ、食卓に上がらないから、ね。

逆に、親がいつも旨そうに食ってるものは、
子供も好きになることが多いんじゃないかな。

さて…、
末っ子の次男は、上の2人とちょっと違って、
何か小言を言われても、
返事だけはしっかりして…た。

ところが中学2年ともなると、
末っ子根性より、
思春期の苛立ちの方がやや勝ってくる。

母親からすると、
叱っても子供が言うことをきかなくなってくると、
自信を失ってしまうようだが、
その主たる要因は、
母親は常に子供の近くにいるが故、
子供がいつまでも小さいわけではない…という、
至極当たり前の客観性が
欠けがちになるから、ではないか。

最もその一心同体的な愛情が、
母親的な愛情に違いないのけれど、ね。

少なくとも「息子」を相手にする場合、
異性である母親とは、
大幅にテンポがずれてきて当たり前
…だという前提を肝に銘じるべきだろう。

…とはいえ、お互いに経験のないことを
あらかじめ理解したうえで進める
…などということは、到底できるはずはない。

母親と息子だけでなく、
こうした人間同士のズレについて例えるなら、
歯車の関係がわかりやすい。

うまくかみ合っていたはずの歯車も、
どちらかの回転速度が
速まったり、逆に遅くなったりすれば、
かみ合い方がぎこちなくなるのは当然。

時には歯と歯が火花を散らす。

歯車の大きさが変化したり、
歯車の歯が欠けてしまった時も同じこと。

こんな時…
しっかり力を伝えようとして、
ついやってしまいがちなのが、
歯車同士の隙間をできるだけ近づけて、
グイグイ相手を押し動かそうとすること。

結果は…肝心の軸が折れかねない。

こういう時には、
一度ニュートラルに戻さなければならない。

つまり、歯車を遠ざけて、はずしてみるんだ。

そうして、客観的にお互いを見直した上で、
新しい、
今の自分たちに適した距離感で近づく必要がある。

離れることを不安に思う気持ちは、
相手を思いやる気持ち以上に、
自分が安心したい気持ちが強いように思われる。

不安を払拭するのは、実は愛なんかじゃない。
不安な気持ちを持つ暇がないほどの忙しさなのだ。

愛について、あれやこれや考えるのは、
恋愛小説を読んで楽しんでいることにも等しい。

いちいち愛など定義せず、
育児について勉強などしなくたって…
猿でも子供は育てられるのにね。

仕事でも趣味でも、
自分が集中できる何かを見つけて、
背中で教えられる親にならないとな。

子供を中心に、子供に集中してたら、
子供からすれば、いったい
何を手本に生きていいかわからないだろう?!

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