20101017
でじたけ流 教育論第532回

親業十七年-でじたけ digitake.com


今月は小5の次男と高2に長男の誕生月。

父親という役回りを演ずるようになってから17年が経とうとしている。
最初の3年は一人っ子の父親で、次は二人兄妹の父親を3年経験してから、三人の子供がいる父親となり今日に至っているわけだ。

子供たちの誕生日が来ると、見るからに成長している子供たちばかり見てしまうものだが、1歳の誕生日を迎える子がいれば、そこには親経験一年の親がいて、10歳の子がいれば、親業も10周年ということになる。

はたして親となって自分は何ができるようになったのか?

子供たちがうちに帰ってくると、まず「手を洗って、うがいしろ」と反射的に言うようになった。もう何千回言ってるかわからない。
で、自分も確実に外出先から戻ると、手を洗ってうがいをするようになってる。

玄関の靴は「きちんと並べろ」。
食事が終われば「食器を台所に運べ」。
台所が汚れ物であふれていたら「率先して洗え」。
夜になったら「カーテンを閉めろ」。

繰り返し言う言葉は数限りなく、繰り返す度に自分もそうしている。
かつて教育論と銘打った思い出話を書き綴った時に気づいたことだが、子育てはまさに親育てなのである。

むしろ子供は、どんどん新しいフィールドに足を踏み入れていくことで、自分の無力さを思い知り、傷つき、そして成長していく。

親は子供より多少社会のことや常識を知っているだけの話で、知っていることを確実にできているのかと言えばそれは違う。
知っていることは知識だが、できることでなければノウハウではない。
まず生き抜いていくために必要なのはノウハウなのだ。

ノウハウは学校では教えてくれない。
それは実践の場ではないのだから仕方のないことだ。
だから学校に教育を頼っていては、生き抜く力を育むことはできないのだ。

いくら学校で英語の文法を習ったとしても、外国人と話す度胸が備わることはない。おそらく、そういう度胸は学校嫌いで不良外国人のたむろする夜の街をフラフラしている連中の方が、はるかに持っているだろう。

度胸、あるいは勇気というものがない限り、知識をノウハウに向上されることは不可能だ。

そして、その裏付けにあるのが覚悟。
親というのは肩書きだけで、親ができているかどうかも覚悟の問題だと思う。

覚悟とは…自分を変えることへの挑戦だから、ね。


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